キャベツは至る所に

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日記4/7

U-NEXTが電子書籍販売のみならず、話読み単位のマンガ配信も始めてだいぶ経つ。

Twitterなどでものべつ書いてきたことだが、2018年ごろから去年に至るまで「家を取り壊すからゆくゆくは引っ越すけど、急ぐ必要はない」という前提で暮らしており、無軌道に行なっていた古本マンガ一気買いにもストップがかかり、マンガを読む量がそれ以前と比べて激減していた。しかも2020年からはコロナ禍に入り、立ち読みにも制限がかかった。それこそ学生時代から主にブックオフでやってきた、拾い読みをして気になるようなら買う・100円棚で見つけたものをバクチ半分で買ってみるなんてことのハードルも上がった。ちょっと前のエントリで書いたような「コロナ禍に入り、やってきたことの連続性が途切れた」みたいなことは、こういうレベルでも起きている。金を使わないと分からないことはたくさんある。

今日の時点で、U-NEXTで無料配信されているマンガは「毎日無料」「毎日無料+」という2種類に分かれ、それぞれ違うポイントを消費して読む。ポイントというか、ソシャゲのスタミナに近いと言うべきだろうか。「毎日無料」は各作品ごとに1日1回消費でき、正午過ぎにチャージされる。「毎日無料+」は毎日6時・18時に6ポイントずつチャージされ、「毎日無料+」対象作品に対し、任意に消費できる。6ポイントのうち、2ポイントずつ使って3作品を2話ずつ読むことも、1作品を6話読むことも可能。「毎日無料+」対象作品にも「毎日無料」のポイントは更にチャージされるので、「毎日無料+」作品はマメにポイントを使い切れば、1日に13話読めることになる。

マンガアプリユーザーには常識だろうが、基本的にこういうポイントは累積されないので、どうしてもポイントを消費し切ってしまいたいと思う欲が出てくる。しかしぼくがスマホゲームにそれほど手を出してこなかったのは、デイリータスクとかを意識するあまり、生活の中でゲームを遊ぶのではなく、ゲームの形に合わせて生活を変形させるようになるのが嫌だったからだ。今までスマホで遊んだゲームは片手で数えられる。ゲームがやりたくてというかV6のファンとして『ラブセン』を遊んだほかは、『ねこあつめ』『ひとりぼっち惑星』『オルタエゴ』だけだ。偏りのあるラインナップ。

U-NEXTをそうやって利用し出したのと、タブレットを買ったことが加わって、年末ごろからマガポケとかゼブラックでもマンガを読み始めたのだが、「他にやらなきゃいけないこともあるし、今日のポイントは腐らせよう」と振る舞えるようになったのはけっこう最近のことである。一旦ではあるが、ようやく望ましいバランスを見つけられたなと思う。

何にせよ、気になっていた作品をまとまった量読めるチャンスがあるのは嬉しい。昔、暇を見つけてはブックオフまで自転車を漕いで行っては「名前は知っているけど読んだことない本を、とりあえず読んでみよう」としていたころの感覚を思い出す。

 

かなり以前からジャンプ作品もロクに読んでいなかったので、ようやく『Dr.STONE』をある程度読んだりした。といっても『アイシールド21』をリアルタイムで読んでいたので、感触はかなり懐かしい。数年前にハイキュー・ヒロアカのアニメを一気見した時にも思ったことだが、ジャンプ作品はターゲット層の問題もあって、成長とか勝利といった、何かを獲得する要素を主軸として採用しやすい。それこそ『Dr.STONE』は「新しいことができるようになっていく」ことがそのまま話の推進力になってゆく造りで、その明快さから、読んでいてポジティブになりやすい。それもあってグイグイ読んだ。だからこそ「薬効でハイになっている」という感想も浮かんでしまいやすく、ハイな状態自体に醒めてしまう危険があるのも、そういう快楽の怖いところなのだが。

 

山本直樹が綴っていたことだったか、それとも山本が引用していたのだったか、「佳境で回想シーンが連発されるのは、構成力のない証拠」という言葉が記憶に残っている。そのものズバリの言葉だと思う。「あのシーン覚えていますか? あれはこのシーンのための伏線だったんですよ」みたいなタイプの回想もそうだし、「今から主人公に倒されるこの悪役にも、こんな来し方があったんです。哀れでしょう?」みたいなタイプの回想もそうだ。前者であれば、ことさらに復習のタイミングを設けなくても記憶に残るよう描くのが作り手の課題であるし、後者であれば、そういうのは後出しジャンケンじゃなくてもっと周到にやってくれ、と思ってしまう。

久しぶりに、話題作・人気作をざっと読んでみたら、そういう作劇の作品がとても多かった。上で引いた「回想シーンの連発は……」という言葉が頭にある身としては、何で皆こんな構成にしてしまうんだろう、と当初は思った。しかし最近になって、こういう叙情の仕方が求められてるのかもしれない、要求があるからこういうものが作られているのかもしれない、とも思い始めている。敗北するキャラのバックボーンが、まさに敗北する直前に描かれれば、お話が明快にはなる。もちろん明快さは単調さを生むけれど、分かりやすさだけが引き起こせる理解のスピード、そのスピードがもたらすカタルシスというものもある。マンガにおいては、そのスピードがあって初めて出来る画作り――構図のデザインの妙・視線誘導の快楽――とかいった要素もある。

 

それとは別に、少年誌青年誌を問わず、マンガを色々バーッと読んでいて「例えばジャンプ読まなくなって15年ぐらいは経つけど、昔こういうコマ割りってあんまりなかったよな」と思ったポイントがある。その話の最終ページのコマ割りだ。

最終ページは次回へのヒキを作るべきページだから、大ゴマで終わることが比較的多い。次回に活躍するキャラが見得を切るとか、スポットが当たっていたキャラの感情が最後に爆発するとか、誰かのピンチに誰かが駆け付けたとか、画面を大きく使って描いた方が(原則的に)良いシーンが入りやすい。

掲載誌も連載時期も異なる作品を色々読んでみて、今って平気で小ゴマで終わるな、と思う。その後もまだまだそのシーンが続いていくのに、スッと終わったりする。まるでページをめくれば話が続くかのような、起承転結の承・転の真っ最中みたいな感じで一話が終わる。ヒキのためのページ、ヒキのためのコマというのがない。もちろん毎話そんなページ作りをするのはプロでも大変だろうし、その作家が毎回毎回そうやって一話を完結させているわけではないのだが、やはり気にはなる。

配信で話読みするのが一般的になっていき、モノによっては本誌掲載上の一話を分割して配信するケースもある(つまり掲載上の一話を読むのに何ポイントも費やす必要がある)から、その辺のコマ割りに凝らなくなった作家が多い……みたいな意識の変遷はあるんだろうか?

なお『Dr.STONE』だが、ここまでで書いた回想シーン連発・最終ページのコマ問題のようなことを感じずに読んだ。「あれはこの時のための伏線だった」という復習的な回想の挿し込み方はさりげない(それこそ小ゴマでサッとやってくる)し、見開きで終わるとか「次回でこれがクラフトできるようになるぞ!」みたいに終わるのがほとんどだ。稲垣理一郎がどれだけネーム(コマ割り)に関わっているか知らないけれども、やはりアイシールドの感触を思い出して懐かしい。

 

今、配信上での一話の分割について書いたが、マガポケで『なるたる』を読み返した時、今でも語り草になるような暴力表現が凄惨な回に限ってめちゃくちゃ分割されてて、その露骨さに笑ってしまった。

 

最近、小説のネタ出しの一環で、あまり音楽の話をしたことのない友人グループに音楽遍歴を聞かせてもらった。そのグループでは自分が最年長で、年下の相手にそういう話を聞きたかった。守備範囲がある程度バラバラに見える友人たちの共通の趣味要素としてボカロがあるのにも驚いたし、「高校生と接する機会があるが、今の子たちは既に流行音楽の中核的要素としてボカロを聴いてる」「昔で言うミスチルバンプ・ラッドみたいな位置にボカロを置いてる子がいる」という話も鮮烈だった。初音ミクの流行は自分の学生時代にも興っていたけれど、当時は他に、ライブを観に行ったりCDを買い漁ったりするジャンルがあったこともあり、全然触れずにいた。2007年ごろからニコニコ動画は観ていたし、ニコ動でも音楽や音楽に関係する映像を探すことはあったのだが。そのころ初めてボアダムスV∞REDOMS名義)を観たりしたので、YouTubeには上がってないBOREDOMSハナタラシの映像がないか検索するなどしていた記憶がある。特定の投稿者の選曲を好きになって、〇〇まとめみたいな動画を片っ端から再生して、歌詞を検索したりコメントを頼りにしてバンド名や音源を割り出したり。

そのまま現在に至り、ボカロには明るくないままだ。あのアニメの主題歌を歌ってるあのミュージシャンがボカロPとしても有名だった、というのを知って「へえ」と思うことは最近でもザラにある。ただ友人たちから聞いた「好きなPの提供曲を聴いて、歌っている人にも興味が湧く」とか、「即売会で買った音源を回してもらって、ニコ動未公開曲を知る」とか、「売れた後のライブで旧名義の曲演奏されてアガる」とかいった話は、自分が音楽の知識を広げている間にも同種の経験をしてきたような話だった。細野晴臣ワークスと知ればとりあえず聴いてみるとか、有名なジャズのアルバムを聴いてみて印象に残ったプレイヤーの名前はなるべく覚えておき、その人のバンドも聴いてみるとか、「キーボードの使われ方がどうも好きだな」と思ってクレジットを見たらやっぱり皆川真人だったとか、弾き語りを観に行ったらその人のバンド名義の曲を聴けて「ギター一本だとこういう歌に聴こえるんだ」と思ったりとか。ところ変わっても、同じような手続きで、みんな音楽を聴いているのだ。

 

「最近の人は、そういう感じでボカロを聴いていて……」という話を、今度は全く別の、自分より年上の友人たちに披露したところ、当然まったく違う話になって面白かった。要約すると「空間で鳴らすっていう前提がない音楽だから、自分たちにはなかなか馴染みづらい」みたいな話だ。自分より遥かに音楽に詳しい人たちの集まりだったから、とても楽しく聞き役に回っていたのだが、自分の音楽体験も色々思い出す良い席だった。

ギターノイズの轟音がライブハウスに充満している瞬間、何度も陶然とさせられてきた。生音が入っているバンドを観ると、プレイヤーの音量の調節の手技だけで戦慄するようなことがあるが、そういう調整を三管でやっていたりするのを観ると、ハーモニーの美しさはたゆまぬ研鑽と現場感覚によって作られるのだと背筋が寒くなったりする。複数のジャンルが混沌とした、他にはない楽器編成のバンドだとその感動もひとしおだ。yojikとwandaのyojikさんが最近バイオリンをよく使うが、ガットギターや二胡の音とバイオリンが合わさるとこういう聴き味になるのかと感動したりした。

ここからは、その時の話の紹介というよりか、ぼくが膨らませた雑感である。なお電子音楽についての細かな言及は、都合よく避けさせてもらう。

DTMがここまで発達する以前、音楽は基本的に、人間が空間において鳴らす前提のものだった。空間の中で鳴り響いているものを体で感じる、つまり会場と音とが調和している瞬間の快楽というのは、体験した人なら克明にイメージできるだろう。また、プレイヤーとリスナーが関係し合う瞬間――素晴らしい表現と、それに今まさに感動する人たち――ライブがその体感の場として設けられている、ということもそうだ。

ただ、今書いている「空間」の話というのはもっと実際的な話だ。劇場や舞踏会で演奏する管弦楽団、ライブハウスやバーで演奏するバンドやシンガー。例は何でもよいが、このハコにはこういう音楽が求められているという要請があり、この音響ならこういう表現が出来てこういう表現が出来ないといった限界がある。更には、その時々の流行や風俗、今の日本でいう風営法のような規律や制限といった前提の上で、こういう音楽をやるにはこの楽器の奏者が必要で、誰かのコネでこういう人物なら引っ張ってこれて……みたいなしがらみなどを越えて演奏集団が結成される。ヴェニューでの演奏というのは、その蓄積の上で一瞬だけ展開されるものだ。その上で、いつも通り演奏すると会場側の機材や音響の問題でニュアンスが全然違ってしまうなんて事態にも見舞われ、最前列の客にはうるさ過ぎ、最後列の客には何を歌ってるか聞き取れない演奏が実現してしまったりする。そしてその時に集まった客がそれを評価し、公演が持つ権威によっては後世までその評価が語り継がれたりする。

音楽はそうやって存在してきた。そうやってプレイされ、録音され再生されてきた。DTMを「そういう前提から解放された音楽」と言う態度も、「そういう前提を失ってしまった音楽」と言う態度も、どちらもあると思う。それは創作における精神の組み上げ方の問題で、どちらが優れている、どちらが誠実だというものではない。ぼくが気になるのは、空間を前提としない音楽に慣れ親しんだ人が「人間の肉体を使ってこんな音楽ができるんだ」「この会場では音がこういう風に聴こえるんだ」とかいう驚異に出くわした時にどういう感動をするのか、またはそういう音楽にだけ親しむことは、そういう驚異に気付ける感覚も痩せさせてしまうのか、ということだ。

小規模なフェスとか、フードメインの野外イベントに音楽ステージを設けるような試みも増えているし、条件が揃えば「その空間に流れるべき音楽」が流れることは、きっとこれからもある。面白い音楽を作っている人は、いつの世も探せばごまんといて、イベンターたちも「まだ届いていないだけで、この音楽に触れたら感動する人がたくさんいる」と信じて企画を打っている。発生のチャンスはたくさんある、とは思うのだが。

 

最近、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読みつつ、昔「動ポモ」を読んだのに読んできてなかった東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだりしているので、こういう「空間」の話を考えていった時、その問題と大塚がよく言及する「公共性」とを、自分がどう結び付けるだろうかと思ったりしている。