キャベツは至る所に

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はみ出し甘藍随想-1

昨年(2023年)の文学フリマ東京37に出店した折、無料配布物として、ZINE『甘藍随想』を作った。中綴じコピー本にしようということだけ決めて、とりあえず主な関心事について思い付くまま、あえて細かく計画立てないまま書き続けた。そうしているうち、中綴じコピー本とするには字数がかさみ過ぎてしまった。自分史というか、幼少期からの趣味の変遷の概括みたいなものを盛り込もうとしたら、むしろ網羅的に書き出してしまったことによる。

結局『甘藍随想』は、そういう部分をほぼ削いで仕上げた。しかしせっかくまあまあの分量を書いてしまったし、これはこれで書いた方が肥やしになるかもしれないとも思えてきたので、こうしてブログに載せる目的で書き続けてみることにした。

既に書いてあるものから展開を付けていくと、そこそこの文字数になると思うので、エントリもいくつかに分ける予定だ。思い浮かんだら、そのつど雑感も書き添えていくが、概ね、一人の人間の趣味の組み上がり方を綴るだけの内容になると思う。他のエントリでもちょくちょく書いているが、ぼくは1987年3月の生まれである。当時の記憶がどれだけ鮮明かなんて、眉に唾して考えるべきだが、自分の一番古い記憶は3~4歳の頃、1990年前後から始まっていると思う。おおよそそれぐらいの時期に触れた作品やメディアのことから順に書いていく。網羅的に書くなどと言いながら、一つのエントリの中では、一つのサブジャンルのことしか書いていないようなことも、多分起こるだろう。興味と暇があれば読んでいただきたい。

 

ちなみに、今後ある作品を書き上げ、公開に至ったら、一連のエントリは削除するかもしれない。

2002~2005年ごろ――つまり自分が高校生だった時期を舞台とし、高校生を主人公とした作品を構想している。自伝的な要素が多少なり含まれる(仮にそうした要素を排しようと努めても、ある程度そのように読まれうる)ものになるだろう。先程「肥やしになるかもしれない」と書いたのは、その小説に活かせるような、特定の作品や特定の流行についての記憶が掘り返せるかもしれない、という考えも多少あってのことだ。このエントリについては、幼少期のことから書き始めて現在に近いどこまでのことを書くかも未定だが、そういうわけで高校卒業前後ぐらいの時期までの趣味遍歴は、少なくとも書く。

その小説はあくまでフィクションとして書く。作品の内容と筆者の来し方をあまり密接にリンクさせて考えられるのには抵抗を感じる。肝心の作品のことすらまだ構想中なのに、未定の事柄についてごちゃごちゃ書くのも格好が悪いが、筆者としては既に念頭にあることなので、削除の可能性について一応明記しておく。

 

 

《オタク》という言葉は、もうあまり断定的に遣えるものではないが、自分には小さい頃からオタクの気質があったと思う。

 

3,4歳の頃、母親に買い物に連れて行かれた先で、好きなビデオを一本買ってもらえることになった。1990年前後のことだ。既にその頃、レンタルビデオはメジャーな娯楽となっていた。だからこそ、セルのビデオを買ってもらい、返却期限を気にせずに繰り返し観られるソフトが手に入るというのは、幼心にも貴重と思えるチャンスだった。熟考の末にぼくが選んだのは、『スーパー戦隊 11戦隊大集合 栄光のオープニング曲集』という一本だった。

ディズニー作品やらジブリ作品のものもある中から、これしかないとチョイスしたのだが、母親からしっかり止められた。何と言われて止められたかまではさすがに記憶にないが、ぼくが特撮ドラマ本編を観たくてそれを買おうとしていると思われたのだった。これはそういうのじゃないのよ、と諌められたわけだが、とんでもない。敢えてそれにしたのだ。4つ上の兄は知っているけれど自分が知らないようなシリーズ作品、もしかしたら兄すら見ていないような作品のオープニングまで入っているのかもしれない。だから観たいのだ。自分の反論もどれだけ弁が立ったものだったのか不明だが、そういう思いから、頑として譲らなかったのは間違いない。めでたくそのソフトを買ってもらい、何だったら再生環境がなくなった今日この時点でも、何だか捨てられずに持ち続けているのだから。

ビデオの内容はまさに希望通りのものだった。「バトルフィーバーJ」から、自分がテレビで観た最初のタイトルである「ターボレンジャー」まで、つまり1979年~89年作のオープニングが収録されている。自分が観ていなかったシリーズ作のオープニングを観ていると、そのヒーローたちがどんな戦いを繰り広げるのか夢想できるのが、また楽しかった。成長と共に戦隊ものを観なくなっても、このビデオは折に触れて何度も観た。時の楽曲にどのようにして電子楽器が導入されていったか、アニメ・特撮の主題歌がどのように変遷していったかが窺い知れる良いソフトだ*1。当時の自分の選択を誉めてやりたい。記憶が確かなら、ジャスコ川口店(現・イオンモール川口)での買い物だった。ちなみに、ラインナップの中で一番好きなのは『超新星フラッシュマン』のオープニング*2

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よくもまあ3歳やそこらで、シリーズの過去作のことを気にして買い物をしたものだと思うが、環境要因の影響は、思い返してみると大きい。兄や、近所に住む年上のいとこに遊んでもらっていたために、その友達の家にまでお邪魔するような機会が多く、自分より少し年上の子どもが暮らす家を訪れることの多い時期だった。それは即ち、戦隊シリーズ以外のものを含め、過去作のオモチャに触れやすいということだ。そうすれば自ずと「昔の作品も観てみたい」という意思が生まれるし、ビデオというメディアは当時、そういう意思を実際に《昔》へと接続させる機能を持つものの代表だった。ぼくはその機能にものすごくハマった子どもだったし、当時から今に至るまでの映像媒体の変遷はすさまじいものだが、ビデオという媒体にはいまだにちょっとフェティッシュなものを感じている。

 

とはいっても、戦隊ヒーローものへの執着は、あまり長く続かなかった。小学校中学年ごろ以降には、玩具を買ってもらってもいない。何というか、戦隊ものという列車が停まる駅から、別の路線の列車に乗り換えたような出来事があったからだ。

生まれた時から、家にファミコンがあった。ファミコン購入の動機は、両親が共働きで兄も寂しかろうとか、父親も少しは興味があったとか色々あったようだが、自分でコントローラーを握って遊んだタイミングというのは、やはり上記のビデオのエピソードの頃、3歳そこらだったと思う。この前写真を整理していたら、オムツも取れていなさそうな頃の自分が、アホ面でファミコンを遊んでいる写真が見つかった。

そのころ繰り返し遊んだソフトの中に、ちょうどコンパチヒーローシリーズがある。複数の版権元と関わりのあったバンプレストが、ガンダム仮面ライダーウルトラマンなどのシリーズ作品を一つのソフトに同居させた、後のスパロボシリーズなどへの派生を生む試みで、第一作『SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所』の発売が1990年である。この一本限りで収録ラインナップから長く離れることになるが、「バトル大相撲」には戦隊シリーズのキャラクター(というかロボット)が登場する。当時「バトル大相撲」は人の家で遊んだので、プレイ感の細かな記憶があまりないが、シリーズ第二作『SDヒーロー総決戦 倒せ!悪の軍団』(バトル大相撲と同年に発売)は自宅にあってめちゃくちゃ遊んだし、スーファミでも、シリーズ後発作を色々遊んだ。特に直系の作品である「ザ・グレイトバトル」シリーズは何タイトルも遊んでいて、思い出深い。当時のスパロボは未就学児がまともにクリアできる難易度ではなかったが、兄が持っていたので初代から触れていた。*3

90年前後というのは、ガンダム仮面ライダーウルトラマンも週間放送作品がない時期だったのだが、ぼくの興味は戦隊ものより、そちらの方に移った。身近な年上の人間が、特にガンダムに興味を持っていたのが大きいのかもしれない。兄やいとこがSDガンダムのプラモとかガン消し*4をたくさん持っていたし、いとこ世代の中で最年長の親戚が、当時のアンソロジー作品の単行本を持っているようなガンダムオタクだった(そういえばあの頃はまだ《ガノタ》という呼称は流行っていなかった)*5

テレビで毎週観ていたわけでもないのに、なぜか各作品にそれなりの知識をぼくが持てているのは、レンタルビデオという文化とか、テレビ雑誌とかコミックボンボンあたりのメディア展開の影響だろう。当時遊んだバンプレストのゲームの中での扱いによって、これを書いているたった今のぼくの印象の中でさえ、ガンダムF91仮面ライダーBLACK RXウルトラマンタロウあたりは《最新作》なのだ。あの辺のゲームは性能差の表現方法がというか、ゲームシステムの作り方がというか、とにかくある意味でシンプルに作られている。旧作のキャラほど弱く、新作のキャラほど強い。「ヒーロー総決戦」で使うRXやタロウとか、初代スパロボで使うF91は、まごうかたなき強キャラ(=操作対象キャラの中でずば抜けて強いキャラ)だった。そういうわけで、実際に放送を観たわけでもないのに(※F91は劇場版作品)、あれらの作品からは、《当時の新作》という認識がなかなか拭えない。

それぞれが独立した作品だという認識はもちろんハッキリあったにせよ、それでも幼少期からゲームでそうした触れ方をしていると、「集合しうるものなのだ」という認識も平行して強まる。当時『ファミコンジャンプ』なんかを遊んだせいも大きいのかもしれないが、クロスオーバー作品(複数の版権作品が一挙に登場する作品)を、あの年齢のときに自然に遊んでしまっていたことが、その後の自分のオタクとしての道行きを割と決定づけたような気もしている。コピー本の『甘藍随想』の方でも書いたことだが、こういう体験を経ると、個々の作品はまったく独立したものだという認識が希薄になる。当時、実際にそういう作品はパトレイバーやMADARAなど色々あったにせよ「メディアミックス」という言葉はまだ一般化されていなかったし、作品がマルチメディア展開された時のキャラの性格やディテールの違いを表すのに「世界線」という言葉を用いる倣いもなかった*6。ただ、一人のキャラやロボットに対して「同じ人だけど、こっちとこっちで違う人でもあるのだ」だと、自然に思えていた。小学校低学年あたりで手塚治虫を読み始めた時、スターシステムや輪廻の表現をすんなり受け入れられたのも、そういうところで素地ができていたからかもしれない。

 

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*1:ターボレンジャーの放送開始にあたり、本放送前のスペシャル回として、このビデオの収録作品の戦隊が勢ぞろいする「10大戦隊集合 頼むぞ! ターボレンジャー」が放送されている。ビデオの企画とどれだけ連動していたか知らないが、子供ながらに「みんなワンフレーム内にいてもいいんだ」と思った記憶がある。

*2:曲とか映像ではないところで印象深いのが、『光戦隊マスクマン』のオープニング。戦隊メンバーの中でこの人だけ殺陣のキレが頭一つ抜けてると感じていた人が、元々役者畑ではなくガッツリ格闘技をやっている方だったと後に知り、驚き半分納得半分

*3:初代スパロボにはパイロットキャラクターが存在せず、あたかもロボットに人格があるかのような会話劇が展開される。敵キャラを味方陣営に引き込む「せっとく」コマンド時における「きみ いいからだしてるね ゲッターチームにはいらないか?」などは今でも語り草になっているテキストだ。第二作からパイロットキャラもゲームに採用され、スパロボのオリジナルキャラも登場。ぼくが自分の意思で買ってもらった最初のスパロボは「EX」というシリーズの外伝的作品で、オリジナルキャラがメインと言えるものだった。オリキャラの増加によって生まれた派生シリーズ「OG」は、ロボアニメファンから歯牙にもかけられなかったりするが、こういうハマり方をした身としては「OG」にはかなり愛着がある。

*4:実物を見たり触ったりした人なら分かると思うが、武者頑駄無とか騎士ガンダムといったSDガンダムシリーズのガン消しを見るだけでは、何の機体からアレンジされたものなのかよく分からない、ということが起こる。ぼくは当時、勝手に「このガン消しが主人公、これとこれは似てるから兄弟」みたいに設定を作って遊んでいたが、主人公としていたのがボチボチ脇役(武者ケンプファー)だった。

*5:当時のガンダムアンソロの単行本などはメチャクチャ高値というわけでもないが、可愛らしいプレミア価格ぐらいの値がついていて、ちょっと手が出しづらい。当時読んだ中で記憶に残っているのは森下薫の『強化人間物語』。登場モビルスーツが全然ゲームにすら出ないので、自分の記憶の中でもよく風化しかけており、こんなことを書いてたらいっそ本買うかという気持ちが頭をもたげてきた。

*6:ナイーヴで内向的なキャラクターが、ロボットを動かすことによって社会と摩擦し、成熟ないし麻痺していく……みたいなロボアニメの文法を作ったことで知られる、ガンダムの主人公アムロ・レイ秋田書店刊の雑誌『冒険王』版のガンダムでは、ディテールの違いどころの騒ぎではない、別人のようなアムロが描かれている。