■5月末ぐらいから風邪気味で、熱やなんかはなかったのだがとにかく喉の調子が悪く、咳が続いて声帯も炎症がひどかった。しゃべる仕事だし、小児喘息をやっていたせいで気管支も強くなくて咳が続くとすぐえづくし、難儀した。抗生物質とかを処方してもらってからは快方に向かい、最近やっと違和感がなくなった。
小児喘息といっても、症状が激しかったのは赤ン坊の頃だけで、そのせいで寝込んだとか入院したという記憶がない。薬ものんでいなかったし、吸入器も使ったことがない。喘息仲間たちがあるあるとして語る「ヴェポラップの匂いがトラウマ」も、よく分からない。ただちょっとした時に、息が詰まりやすいとかえづきやすいとかいうのだけが喘息の名残りなんだな、と思っていたが、いい年になってから春先に花粉症の症状が出るようになり、ひどい時には咳も出て喉がガラガラになってしまうようになった。その時かかった呼吸器科でレントゲンまで撮ってもらった結果、小児喘息の影響のせいで気管支がよく発達していないと言われた。曰く「きれいな肺じゃない」とのこと。
春先は花粉のせいもあるし、黄砂やPM2.5とかの要因も複合して、キミみたいな人は喘息もどきになりやすいんだよ、という診断だったのだが、そんなこととは露知らず先に内科にかかっていて「風邪では?」という診断と処方を受けていたので、内科からはこういう鎮咳去痰薬が出たんですけど全然よくならなくて、という旨を伝えたところ、ダメだよこんなの飲んでたらむしろ咳は激化するから今すぐやめなさい、と叱られて、そのあと出た薬でピタリと症状が止んだ。春先に喉までおかしくなるのは毎年のことではなく、その病院にはその後1,2回お世話になったが、多分ぼくが生まれた時から営業していた(地元の)病院で、医師も高齢であり、そのうち閉院してしまった。以降、似たような症状になって病院にかかってみる際、こうした診断を受けたことがあるのですと説明してみるのだが、当たり前に出る鎮咳薬で咳が酷くなるなんてことはないと思いますけどね、みたいな感じで毎回一笑に付され、かかった直後によくなったとか老医師であるために賢者然として見えたとか、色んな組み合わせであのお医者を信奉してしまっているだけ、いわばこれも複合要因で免疫系がおかしくなってるみたいなことであり脱すべき偏見なのだろうか、それとも老医師の治療を歯牙にもかけないドクターたちが信頼すべからざる若造ちゃんなのだろうか、と今もモヤモヤ考え続けている。
■近ごろ全然ギターも触っていないし、歌い手としての自覚なんてほぼゼロに等しいのだが、高い音域がまったく出なくなると危機感を覚える。大事にしていた持ち物が手元から離れてしまったような不安に陥る。1枚でも自分の歌のアルバムを作ったことがあるのだから、当然といえば当然というか、音楽活動をしている近しい人には自分だってそう接しているわけだが、久しぶりに会う人から、今は弾き語りやってないの、曲作ったりしてないの、と言われたことが最近よくあって、ああまだ自分のことをそう思ってくれる人がいるのだな、とありがたく思ったりする。
■河野多惠子の『タマや』を読み始めたから、なんかセンテンスの区切り方が影響を受けている。
こんな風なバランスの小説だったのかと驚いたのだが、風変わりというか浮世離れした登場人物がポンポン出てきて、その人物たちが簡潔に相関を始めて、あふれ出るのをあふれ出たままにしているような勢いで会話が続き、風が吹いて過ぎ去るみたいにして一篇が終わっていく。とてもスクリューボール・コメディ。『愛の生活』とか、エッセイ『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』とかを読んでいたから、もっと怜悧でソリッドな感触を予想していたところがあって、それが裏切られてこっちの体勢が崩れているせいもあいまって、読んでいて楽しい。
■YouTubeを観ていたら何故かいきなりクリストファー・クロスがサジェストされた。母親が好きだったがちゃんとアルバムは聴かなかった、という数少ないミュージシャン。しかし歌声は好き。演奏している姿もろくに見たことがなかったのだが、フロントマンでツインネック弾いてる人初めて見たかもしれない、と思ってフルで観てしまった。
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美しい曲。
■あとクリストファー・クロスの記憶と言えば、吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』で、「自分の部屋に彼女を招き、セックスにこぎつけるまでのムード作りとして音楽を使おう」というくだりがあるのだが、あんまりアーティストが美形だとベクトルがブレる、ホール&オーツとかはそういう意味で良くない、クリストファー・クロスあたりがベタだろう、などと語られる。
『河よりも長くゆるやかに』だと、ユーミンの新譜をプレゼントに渡すとか、デートムービーとして『スターウォーズ』を観に行ってキャラ同士が感想を言い合うとかいうシーンがある他、初長編『カリフォルニア物語』でも序盤からサイモン&ガーファンクルの引用がある。日本の現代劇だったら「細野晴臣はヨーダに似ている」(確か『十三夜荘奇談』)とか「森昌子みたいに何着ても似合わないヒトっているのよね」(確か『櫻の園』だったような)とかいう表現があった。
読み始めの時、こうして実在の人物名(偉人の格言とか名文句の引用ではなく、流行歌手とかタレントの名前まで)バンバン出すのが新鮮だった。少女マンガ読みとして劣等感を覚えている部分なのだが、少女マンガを熱心に読み始めたのが二十歳を過ぎた後なので、少年誌のそれのようには、ある作品が売れるまでの盛り上がり方とか、ジャンルの盛衰の知識が全然ない。だから吉田のこういう特徴のことも、同時代とかの作家と比してどれだけ異質なのか、全然掴めていない。
今の尺度で読むとバッチリ失礼な表現がたくさんだと思うが、初読の時は笑って読んでいた記憶がある。近年はじめて読んだので、『ハナコ月記』の「最近あれぐらいブスのカップルでも堂々と公衆の面前でイチャつくようになったよね」みたいな回は、さすがに顔をしかめつつ読んだけど。
こういう風にシーンを具体的に列挙しておいてなんだが、ぼくは吉田秋生のマンガが大好きだし、別段ルッキストだとも思っていない。恐らく少女マンガ作家の系譜の中で、美形賛美が強かった作家だとは思う。ただこれは「少女マンガにおいて美男子を出すのは最低条件」みたいな意識とか、美形賛美をやってナンボの表象や媒体がいかに当時強かったかというのが大いに関係する話で、作家個人の美意識(偏見)だけをどうこう言える問題ではないし、当時の風俗も知らぬまま当節の意識だけで過去の作品の《正しさ》を論じようとするべきではない。その《当時の空気》を仮想することがむずかしいから、どの作品を《不朽の名作》と渾名するかもむずかしい、という話でもあるのだが。
■その人物が差別的であるか(現時点で)判断するには、現役の作家なのであれば新作を読まないといけない。吉田作品で言うと、ぼくは『海街diary』で止まっているが、吉田作品の歴史において、「海街」は重要な転換を見せている作品だと思う。
代表作『BANANA FISH』の主人公アッシュ・リンクスは、スケールを日本マンガ史全体に広げたとしても、美形キャラ番付みたいなものを組んだら上位にランクインすると思う(多分)。「河よりも…」前後の作品を読むと顕著なのだが、吉田作品において、イケメンとして描画されるキャラクターのデザインは、輪郭・目の形状・髪形など、パーツ単位でかなり固定化されている。この時期は量産期で、仕事量自体多かったであろう。もちろん初出年だけ見るだけではスケジュールのことなど分からないし、くだんのイケメンのデザインが忙殺によって固定化が進んだものなのかなど、実情は知る由もないが、「吉田作品における判で捺したようなイケメン」と言われてパッと思い浮かぶようなデザインが明確にある(そのデザインの記憶が鮮明だから、襟足が外にハネている男性を見ると「吉田秋生っぽい」と思うまでになった)。
大作『BANANA FISH』(そして設定を共有する『YASHA』シリーズ)や、「海街」と設定を共有する『ラヴァーズ・キス』以降、作品の量的ヴォリューム、または作者の精神的比重のためか、アッシュおよび藤井朋章がいわばイケメン代表的な役割を担っていくことになる。やっと「海街」のどこを重要と思うかに話を戻すが、「海街」には朋章に加え、多田という二人のイケメンが現れる――ここで言う《イケメン》は、作中でも周囲のキャラからそう評されて、作品の《空気》の中でイケメンとして存在するというだけでなく、吉田作品におけるイケメンのデザインを踏襲している、という意味合いも含む。
朋章も多田も、「海街」の作劇において重要なキャラクターではあるのだが、ハッキリと話の周縁に配置されている。ネタバレになるが、主人公と呼ぶべき四姉妹と恋愛関係を築くキャラクターたちは皆、ポピュラーなイケメン像からも、吉田作品における美形像(『カリフォルニア物語』から既に見られ、アッシュによって凝縮され切ったとも言える、美しくありながら才溢れる、まさにロマンチックな主人公像)からはかけ離れている。
「海街」は不定期連載作品で、2006年~2018年まで続いた。この時期に顔の美醜についての問題を恋愛劇がどう扱っていたか、みたいな話をもはやパッとは出せなくて、「海街」の態度が流行的に《イケメンのウエイトを減らしただけ》なのか、つまり「人間は顔じゃない」という潮目の力を引き込もうとした作品であるのか、何かと比較して指摘できない。しかし一読者としては、意図的な転換があったのではないか、と思える。ルッキズム批判への転換、という性質のものでもないと思うが、何というか、大袈裟に言えば、リアリズムへの転換だったのではないかと思っている。SF的な要素まで包含して突き進んでいくことになった『BANANA FISH』~『YASHA』~『イヴの眠り』のカラーから遠ざかった色彩を作ろうという転換というか、虚構の中にだけ存在するイケメンというものがいるが「海街」を動かすのはそういうキャラではない、みたいな決断というか……。時折なめらかに挿し込まれる古典からの引用なども吉田秋生を読む時の楽しみの一つだが、「海街」にもまた、古都・鎌倉を舞台にしているための身近さを伴いつつ、古典や伝統芸能の翳がふっと差してくる。どうも「海街」には、本当のことを本当のまま盛り込もうという意識が感じられる。
■吉田秋生の作品で何が好き、と言われると迷うが、短編含めると『ジュリエットの海』が一番好きです。
■先日の飲み会で「24年組とかJUNEとかの耽美ぶりとかを精神的に後継しているわけじゃないし、現行のBLの流行りドンズバのビジュアルとも言えないのに、線の細いイケメン同士でゲイ表象を作ろうとする傾向が、なぜかメインストリームにおいてしぶとくあるよね」みたいな話で盛り上がった。吉田秋生の男性同性愛的な表現の源泉は『真夜中のカーボーイ』にあるそうだが(本人が昔そう語っていた)。この辺のことを、BLを愛好する色んな人に聞いてみたい。