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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

夏から秋ぐらいによく聴いていたアルバム

yukaD『Exhibition』

Exhibition

ostooandellのギターボーカル、yukaDのソロアルバム。土井玄臣との対バンで初めてライブを観て、すぐに物販でコレ(とシングル『日帰りでいい』)を買った。ostooandellは2008年頃に存在を知って以来すごく好きだったのだが、ライブを観る機会を作れないうちに解散してしまった。だから今yukaDをリアルタイムで聴けるのはひどく嬉しい。
ostooandellの時から感じていたことだけど、「イェイ」とか「ウォウウォウ」とかありふれたフレーズを歌っているだけなのに、どこか斬新に聴こえる。その感じは、歌詞の中のカタカナ言葉の歌い方や選び方を見ていると、何となく由来が分かる気がしてくる。実にはっきりとした発音で歌われるそれらのフレーズは、日本語の歌の中であたかも和語のように響いている。そのあまりの自然さが不自然なために、独特な聴こえ方をするのではないか。そんな歌が、明確な物語を持たない詞、つまり始まりも終わりもない詞を歌う。
そのとき初めて生まれる無国籍性がyukaDの歌にはある。海外で流れているのを想像しても、「よく似合うだろう」とか「ミスマッチじゃないか」とか、なかなか考えられない。ジャングルや砂漠はともかく、「街」で流れたとすれば東西どんな国で響いても、摩擦もせず拒絶もされないひとつの音楽として存在できると思う。こんな妄想をしてしまうのは、その物語のない詞の中で歌われているのが、古今東西で営まれてきた「暮らし」であるからなんだけど。

「おはよう」ってドアを開けて 寝ぼけたまま そのままgroove in  #1『street』

パンとワイン 陽の当たる部屋 パンとワイン くりかえし  #6『パンとワイン』

生活には節目しかなく、始まりも終わりもない(無粋覚悟で言葉にするなら、始まりは誕生で終わりは死だ)。このアルバムの魅力は、聴いていると、その途方もなさを肯定的に捉えられるところだ。庵野秀明が「現実に立ち返った時にエネルギーが残る表現、内にこもらせるのではなく外に向かおうとさせる表現こそすぐれていて、自分は『エヴァ』でそれができなかった」と言っていたが、まさしくyukaDの歌にはインゴーイングなところがなく、現実逃避を誘わない。素敵なバンドを組んでいたフロントマンがソロになり、弾き語りと打ち込みで単身織り上げたこのアルバムには、別れや孤独の冷たさが薫っている。そして孤独は、繰り返していけるはずの生活を鬱に落とし込む恐ろしさを持っている。だけど愛おしい時間を、間違いなく自分の理性と感覚で噛みしめるための自由さも与えてくれる。yukaDの歌にあるのは後者だ。

Meshell Ndegeocello『Comet, come to me』

Comet Come to Me -Digi-

何度も名前を出しているが大宮のモアレコで購入。土井玄臣さんがTwitterで推薦していたことも大きい。フーディーニのカバーである#1『Friends』から只事ではない感じが漂っていたが、#2『Tom』の、ドイル・ブラムホールの濃く甘いギターがもうヤバく、そこで「もう一回しっかり聴いちゃえ」と思ってレジでハイネケンを買うと、そこに根を生やし、通して聴いた。その上で買おうと決めたのだった。
ソウル、ヒップホップ、ジャズ、レゲエ、ロック……ブラックミュージックの内のいくつものジャンルを横断したサウンド、というような触れ込みから果たしてどんなものかと試聴してみて、度肝を抜かれた。本当にその通りだった。「ジャンルの横断」という謳い文句につられて、どっちつかずの音楽とか、腐れ大学生のレポートよろしくコピペみたいな音楽を聴いちまったことは何度もあるが、しっかりといくつもの系を総括して、それを曲ごとに使い分けている、なおかつ通底しているものもあるというアルバムは初めて聴いたかもしれない。
実際、どこを見ても黒人音楽的な要素を感じる。ただ、ラップのカバーもブラムホールのギターもそうだし、#4『Forget My Name』や#6『Comet, come to me』にあるリズムやオルガンのレゲエらしさ、どれもが安っぽくない。まったく性急ではない、安易に興奮へ忘我へと高まっていこうとする浅ましさがこれっぽっちもない、代わりにより深く、より暗くへと沈降していく官能的な動きがある。#7『Continuous Performance』、#8『Shopping For Jazz』ではその空気を一変させた軽快さが展開するのだが、そこでもやはり大人しさが効いていて一味違う。#9『Conviction』〜#13『American Rhapsody』までは、またしても沈降を想わせる、静かな、ストイックであるから却って生まれるエロスが続く。そうして到達するラストナンバー『American Rhapsody』は3分弱という小曲だが、そのサイズに納めたのがもったいないと思えるような玄妙なメロディと、結局この後味の良さが完成度を損なわないエンディングを成立させているのだ、と思わせる説得力がある。いや、何というか、「説得力」というのもおこがましい表現だ。自分はこのアルバムに説得されるほど大した人間じゃない。
香水のように複雑で、木のように静かで落ち着いていて、ウイスキーのように甘く、金のようにではなく銀のように輝いている。歌も演奏もそんな風なもんで、ブラックミュージックに通じた気になっていた自分を開眼させて、「オトナだ……」と嘆息させるほか許してくれない。

Jullander『Phobos in Funkytown』

フォボス・イン・ファンキータウン

ドイツのポストロックバンド。Sea and cakeとかと聴き味が近いんだけど、やっぱりちょっと違う。
このアルバムについては勝手な聴き方をしている。Sea and cakeを引き合いに出したけど、ジョン・マッケンタイアの携わる音楽に「ありふれている感じがするのに、やっぱり全然聴いたことない」という面白さがあるのに対して、ユランダーは「聴いた覚えはないけれど、すごく馴染み深い」という愛着がある。名前も知らなかったのに。自分の頭の中で自動生成される音楽にすごく近いというか、日頃考えるでもなく考える自分独自の音楽と、フォルムが酷似した音楽。ポエトリーリーディング、淡々とした展開、適当と言えなくもない音色の組み合わせが、すごく人工的なバランスで関係していることで醸される作り物っぽさがその所以だろうか。友人の表現を借りると「試験管っぽい感じ」。
そんな個人的なハマり方でハマっているので、客観的なことをあんまり書けないのだが、静的な雰囲気にはラウンジミュージックのような効能があるし、反復性の高い音楽を好む人には、凝りをゆっくりとほぐすようなソフトな気持ちよさを感じさせる音楽ではないかと思う。

渚にて渚にて

On The Love Beach

何年も山本精一に心酔したり、近年工藤冬里の音楽を興味深く思っていたりしたところ、友人から「何はともあれ渚にてを聴けお前は今すぐ」と言われ続けるようになり、そして聴いた。とても好きだった。
渚にて』というネーミングは(Wikipediaによると)ニール・ヤングではなくてネヴィル・シュートの小説から来ているらしい。ネヴィル・シュートの『渚にて』といえば、核戦争によって死滅が運命づけられた人類が最後の日を待ちながら、生存への根拠のない希望と、約束された死という濃すぎる絶望のあいだを行きつ戻りつする様を描いた小説で、針が希望にも絶望にも振り切らない所にすばらしい面白さがあるんだけれど、このアルバムにも、安易に極へと寄っていかない面白さがある。
極に寄らない。分からせようとも分からせまいともしていない、と言い換えられるだろうか。大体の魅力が理屈で分かると思えてしまうものはつまらないし、一粒も「分かる」と思えるところがないものは、よっぽどその総体に魅力がないと好感が持てない。それこそ山本精一とか工藤冬里の音楽に求めていることなのだが、分からないところはとことん分からないし、でもストレートに伝わってくる部分については、少しも摩擦をかけられないまま、自分の体に入ってくる。
ボーカルに、フォークのそれとはまたちょっと違う、歌謡曲とか演歌っぽい古臭さを感じて、最初は面食らった。だけど渚にてが大阪や京都の辺りで発生した集団だと知って、何となく合点がいった。関西(特に大阪)のミュージシャンの音楽からは、作品単体の印象より先に、ミュージシャンのバックボーンの気配を感じ取ることが多い。言うなれば、継承されたものの感じがする。例えばぼくは、ceroや森は生きているから、すごく濃く《東京》のにおいを嗅いでいる。彼らもまた元ネタの気配というか、いろいろな音楽を聴いてきたためだろう旨味を持っているけれど、彼らのやっていることは《引用》だと思う。だけど山本精一にも、INUや変身キリンにも、以前このブログで触れた土井玄臣にも、そして渚にてや頭士奈生樹にも感じるのは、もっと生々しい、肉体を通している感じなのだ(別にceroや森の音楽を頭でっかちと揶揄したいわけではない。全く別の「好き」を遣ってぼくは彼らの音楽も好きだ)。
NETWORKSとかを例に挙げれば分かりやすいだろうか……大阪の音楽はすごくフィジカルな感じがする。いま書きながら思いついただけだけど、くるりが唯一無二の集団として扱われるのも、多ジャンルの音楽を、理性的にではなくて身体的に引用している面白さから来るんじゃないだろうか? とにかく、渚にてのこのアルバムは「歌もの」に分類できるもので、リズム隊が入っていないビート感の乏しい曲も多く収録されているんだけど、どこに切り口を入れても血が溢れてきそうな生き物っぽさがある。それは歌と、虚無的なのに温みのある不思議な歌詞、ノイジーだからこそ圧倒的な快が宿っているギターの音、素朴に音を彩るそのほかの楽器とが絡まり合った結果だ。そして、生き物らしい音楽は必ず少し悲しい。ジャケットのせいかもしれないが、このアルバムを晴れた空を見ながら聴いていると、青空が朗らかなだけではなくて、その青がどこか哀れであることに考えが傾く。