キャベツは至る所に

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oono yuuki 『夜と火』

夜と火

言うまでもなく、ぼくはブログをやっている。進んで文章を書くということは、言霊を信じているということに他ならない。

言葉は単なる記号ではなく、また単なる意味や概念の連なりでもない。いつもなら分かたれているものの境い目を少しだけあいまいにしたり、普通触れないものに触れる力を持つものだと信じるということだ。

 

oono yuukiの詞は飾りを持たない。神話の時代から色々な意味を押し込められてきた数多のキーワード――塔、血、灰、嵐、荒野、悪魔、精霊、そして夜と火――それらをふんだんに詞に織り込みながら、美を謳い上げたり、悲劇を物語ろうとしない。下手投げで柔らかく放られてくるようなそうした言葉に、古典詩の高尚さや難解さはなく、サブカルチャーじみた咀嚼のしやすさもない。ただ、ひたむきに歌われる詞をじっと見つめれば、oono yuukiその人の姿がそこにあり、彼の更に向こうの広がりには、古今東西の物語の翳が無数に落ちているのが誰の目にも映ることだろう。

それを視ては、もうこのアルバムは邪険に扱えない。どこにも行けないような気がして泣きたくなる夜や、ただ破壊することしかしない無慈悲な炎を歌に込めながら、このアルバムは一個の人間のように豊穣だ。最初、意味深な言葉がイメージの火花を散らせて、それが豊かな印象を抱かせるのかとも考えた。しかし、ライブを観て、アルバムを聴き返すごとにそうではないと思えてきた。次に引用する詞がヒントになった。

 

   明日もし全てが終わるならば

   絵にかいたような最期じゃないといいな

   ――#8『夜道』

 

たくさんのアポカリプスとディストピアを描いた作品が生まれても、世界はそれとは無関係に(あるいは関係ないという顔をしながら)回り続けている。少しの鋭敏さを持っている人になら、ある程度の力があると信じるかは別にしても、「世の中が間違っていても、フィクションはそれを転覆させられない」という諦めが宿る。「人生について知るべきことは全て『カラマーゾフの兄弟』の中にあった。しかしもうそれでは足りないのだ」という有名な一節があるように。

しかし、上の詞はどうだろう。終末を甘受しているかのようでいて、良質な終末ものと同じように、失ってはいけないものの存在をうかがわせる暖かみがある。

全編弾き語りのこのアルバムには、oono yuukiしかいない。だから寂しくて、夜をいっそう暗くさせる。だから寒くて、火を恋しくさせる。古来、ひとが夜の闇に魔を見出し、火を神より下賜された善なる光だと崇めたような、科学とか社会がほんとうの意味では侵食しきれない思考や精神の動きが、このアルバムからは伝わってくる。そうして響いてくる歌が胸を打たずにいるだろうか?

以前ぼくは入江陽の歌を評した時に、夜には魔力があると書いた。ひとが文学の中で追い求めているのと同じ精度で、夜は様々な境界を暴き出し、ものごとを隔てる壁を取り払う。例えば夜に照る光は、昼のような明るみで人を憩わせる一方、光が及ばない外は闇であるのだと語らずにはいない。このアルバムにはそうした恐ろしさがある。体調を崩しバンド活動を休止して、一人で歌うことを決めたoono yuukiの見ているであろうビジョンの恐ろしさが。厖大なそれを一人で見つめることの恐怖が。

そうして作り手/演奏家が一人立つことを、覚悟とか矜持とかいう良い格好の言葉や、哀切とか孤独とかいう綺麗な言葉で説明することは簡単だ。だけど、ぼくはoonoさんの歌を生で聴いてしまうと、畏れ多くてそんな説明を付けようと思えなくなってしまう。oonoさんはいつも目をつぶり、時々眉根に皺を寄せながら歌う。その姿には歌詞同様虚飾などなく、ステージにはただ歌と歌手がある。それを観ていると、ぼくもこの人と同じように、修辞でごまかすことを丹念に回避して、(そんなもの人間に紡げるのか分からないけれど)少しでも「本当」を捉える言葉をひねり出さなければならないと思う。

もしかしたらどこかで見たことがあったかもしれないが、このアルバムのクレジットで彼の名前は「悠紀」と書くのを知り、何とも言えず納得した。「紀」は筋道の立った掟とか顛末という意味を持つ。遥か遠くまで広がり続ける何かを、ぽつんとした言葉を淡々と配置して、それでもひとつのまとまりへと導いていく。そういう歌が一〇篇続く美しいアルバム。

原田茶飯事 『いななき』

いななき

 

 「おれは若いころ、本のなんたるかを知る必要に迫られて何冊か読んだことがあるが、本はなにもいってないぞ! 人に教えられるようなことなんかひとつもない。小説なんざ、しょせんこの世に存在しない人間の話だ、想像のなかだけの絵空事だ。ノンフィクションはもっとひどいぞ。どこぞの教授が別の教授をばか呼ばわりしたり、どこぞの哲学者が別の哲学者に向かってわめきちらしたり。どれもこれも、駆けずり回って星の光を消し、太陽の輝きを失わせるものばかりだ。お前は迷子になるだけだぞ」 

「われわれはそうそう走りまわってばかりはいられないし、あらゆる人間と話ができるわけでもなければ、世界じゅうの都市のことを知っているわけでもない。時間もなければ金もないし、そう多くの友人がいるわけでもないのだからして。モンターグ君、きみがさがしているものは、この世界のどこかにある。しかし、ふつうの人間がさがしものの九十九パーセントを見いだすのは本のなかだ」

 ――レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

伊藤典夫訳・ハヤカワ文庫/百五頁、百四十四頁より。太字部は本文中の傍点部)

 

歌は誰からも出てくるし、誰にでも歌える。それは「歌」の寛容さでもあるし途方のなさでもあるから、それに気付くと、音楽は豊かだと改めて思える一方で、シンガーソングライターの作品を聴き続けることが何だか辛くなってしまうことがある。人から出でた歌を聴き続けるのは、人の思考や哲学を目の当たりにすること――「世の中の一人一人が、自分と同等の宇宙を抱きながら生きている」ということを確認し続ける行為に他ならないからだ。上に引用した『華氏451度』に登場する、相克する主張を読むような過酷な娯楽体験。

人間から生まれたものだから、歌にもいろいろある。醜さをうたった歌に面食らうことや、刃物のような歌で傷つくことがある。よく知っている悲劇のディテールを突き詰めたような歌で、辛い記憶がよみがえることもある。そうしたしんどさの中で見つかる大切な知見はたくさんあるが、心の耐久力には限界があるから、しんどいものばかり拾い上げては過ごしていけない。

このアルバムはぼくが初めて買った原田茶飯事の作品であるが、何というか、予想していたよりも暗い領野のことを歌っていた。例えば、無常な道行きをメロウな演奏に乗せて歌う『終末のドライブ』、やけっぱちなまでに軽快な曲調の中に「止む雨を待って何年経ったか覚えられない」というドキッとするフレーズを滑り込ませた『エーデルワイスのように』、あまりに切ない歌い出しとメロディの『大通りは愛でいっぱい』。そこだけを抽出して煮詰めていけば、人生の普遍的な悲劇の似姿が出来上がるだろうモチーフの数々。一筋縄ではいかない面白いリズムに彩られ、楽曲はポップであるのだが、時々心がざわめくような歌だ。

そうした刺激に相対する時、普通少しは身構えるものだ。それでも茶飯事さんの歌は、無防備に好きになった。その理由は、世界が悪に傾くのを食い止めようとしているからだ。人間が作る物差しでは、善悪をかんたんに二元化できないけれど、どう考えても悪い行ないが世の中にはある。多くの人が道徳や克己をあきらめてしまえば、社会なんてすぐに荒廃してしまう。彼の歌はそれに歯止めをかけようとしている。悪を攻撃するのではなく、善を慈しむようにして。そして「あなた」に歌おうという歌詞と声で歌っている。

 

   雨が止んだら

   きみが病んだら

   濡れたまま立ち上がる   ――『おもいやりの茶飯事』

 

ギャグにもとれるタイトルと、ダジャレっぽい歌詞だが、雨が降っていても親しい人が心身を持ち崩していても「濡れたまま立ち上がる」人は、「おもいやり」の持ち主だ。あがた森魚さんも、ライブで言っていた。「ステージから見て、お客さんがたくさんいる。その中のあなたに届くようにと歌っている」と。悪を討ち、間違いを正す主張や表現が不可欠だから、プロテスト・ソングなどは強い意義を持つ。そういう攻撃力を受けてささくれた心に軟膏を塗るような歌も、同じように意義を持つ。あがたさん然り、茶飯事さん然り。こういう優しい表現は、つまらないものに出くわした時の失望を蹴っ飛ばしてくれるのはもちろんのこと、峻烈な表現のしんどさに疲れた神経にも、柔らかく沁みる。峻烈な表現と同じ美味と滋養に満ちていながら、だ。

声を張り上げた時の溌剌とした聴き応えは思いっきりエンターテイメントなのに、囁くような歌声ではゾクゾクしてしまうヴォーカリゼーションの妙。歌の躍動感(ライブだと余計によく分かる)を、増幅させるバックの演奏陣も見事だ。『どうかしてるぜ』のリズムで何度踊っていることか。『終末のドライブ』や『モンスーン』のオルガンも大好きな音色。「聴いていて楽しい」。音楽に求めるべき魅力の一つを見事に実現しながら、歌詞にも心騒がされる。素晴らしいアルバムだと躊躇わずに言える。

 

似たり寄ったりの歌に埋もれている愛すべき歌を見つけ出すのは、いつだって難しいし面倒くさい。だけど、茶飯事さんの歌は見つけられてよかったし、こんな歌が見つかるなら、面倒だって厭わない。何故ならとびきり優しいからだ。「優しい」と書いて思ったが、歌を「優しい」と言おうとする時、ひとが測っているのは愛のボリュームなのかもしれない。この人の歌からは愛があふれているので、何度も聴いてしまうのだろう。