キャベツは至る所に

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日記5/31

ペルソナ3リロード』をクリアした。プレイ感はとても良く、当節風に遊びやすくなっているとはいっても単純に難易度を落としている訳でもなく、演出やエピソードの追加も嬉しいものが多かった。ただ、これはひとえに自分のプレイングのせいなのだが、初見プレイで全コミュのレベルをMAXに持っていけなかったことがとにかく心残りで、クリア後の満足感まで少し翳ってしまった。

ペルソナ3~5は《一年》を過ごすゲーム――新学期からその学年の終わりまでを過ごす中で、成長・戦い・他者との交わりを経験するという設計になっている。そして必ず、最終決戦で「一年で育んだ絆が主人公の力になる」。具体的に演出の点まで言うと「コミュレベルをMAXにしたキャラクターからの激励などが挿まれてラスボスを倒す」というクライマックスを迎える。無印のペルソナ3ではコミュシステム初導入ということもあって、今でも「初見では、一周目全コミュMAXはちょっとムリ」と思うようなバランスになっていた。だからこそP3Rの初回プレイでそれを成し遂げるのは一つの悲願だったのだが。

ペルソナシリーズは、自キャラが操る特殊能力や、登場人物の性格・物語上での役割を、タロットカードの大アルカナになぞらえてデザインしている。上記のコミュにもまた、魔術師コミュとか塔コミュとか、それぞれアルカナの名前があてがわれている。

タロットは、中世の後半にはもう今の形ができていたとされる歴史あるカードで、広く知られているように占いに用いられる。占いという行為の射程は世界全体だ。的中するかはさておき、世界の命運だの、ひと一人の人生全体を占うことができる。古今東西、占いの道具は様々あるが、タロットは基本的にカードデッキだけを使って占いをするわけだから、その図柄とか数字の大小によって、抽象的にでも世界全体を表現できなければならない。

ペルソナのゲーム中でもよく言及されるが、大アルカナには0~21の数字が与えられており、これは魂の成長の旅路――人格形成の様を描いているとされる。このエントリで詳述まではしないが、0が《愚者》のカード、21が《世界》のカードと言うだけで、なんとなくその壮大さはイメージしてもらえるだろう。言うなれば、それぞれのアルカナは《ライフステージ》とか《人生における課題やイベントの類型》と言い換えることも出来る。そしてペルソナ3~5ではアルカナに対応したコミュがある(※5での名称は「コープ」)。

そこには、主人公を全ての他者と交流させよう、全ての試練に挑ませようという意図が存在することになる。もちろん各タイトルにおいて「世の中の人間のタイプを約20に分けて、全タイプの人間が揃うようにキャラを作り、配置している」と言えるほどの明確な狙いを感じるわけではないし、たかだか二十余名との交流で《全ての他者》《全ての試練》は大袈裟でしょう、という話でもある。しかしキャラ設定の準拠元がアルカナである以上、その配置が恣意的と感じられるものになるというか、ある程度過度に役割分担的にならざるを得ない。この辺は5だと、「利害が一致して関係が生まれる」という導入が全コープで共通していて、より顕著だ。

無印3を先にプレイし、かつシリーズの他作品もプレイし、そしてP3Rをプレイした者として、「リメイクにおいて、コープイベントに手を加えるかどうかの判断は難しかっただろう」と感じさせられた。後の4・5と比べると、3のコミュイベントの手応えはかなりあっさりしている。キャラが抱えている課題のスケールの面でも、それを表すテキスト量の面でも。フルボイス化はされたものの、記憶が確かならテキスト部分はほとんど変わっていないと思う。シリーズにおいて、ゲーム中でのコミュ要素のバランスをどうするかには試行錯誤の跡が見られる。どれだけ攻略に益するようにするかという調整もさることながら、コミュはメインクエストを進めるのに必須ではないのに、どこまでの質量の物語を持たせるべきかというのも大きな問題だ。いちプレイヤーとしては、後のタイトルに行くほど質量が増していっていると感じる(4以降、パーティキャラ全員とコミュを築けるようになったせいもあるが)。5はキャラの悩み事にガンガンコミットしていく設計だったが、5だけ遊んだプレイヤーがP3Rを遊んだ時に、校内喫煙の犯人を捜す生徒会役員のコミュとか、ケガを押して競技に打ち込む運動部員のコミュとかにおけるストーリーテリングはショボく映ってしまうんだろうか……などと考えたのだった。

 

古井由吉『櫛の火』を読んだ。学部生時代に買ってたくせに「卒論には組み込めそうにないかも」とすぐには読まず、後に手に取った時にはうまく読み進められず、という感じで置いておいてしまった。氏の長編を読むのはかなり久しぶりで、この字数の古井由吉を読むとこういう感覚になれるのだ、というだけで感動があった。

かつての恋人の死に目に会うが、その心痛から生活を立て直し、そしてまた新たな女に出会う……というのが筋と言えば筋なのだが、現在ポピュラーであろう心理的なフォーカスはない。喪失感に向けてピントは合わされていかないし、死者をどれだけ愛していたか思い知って涙するみたいなこともない。そもそもそんな描写があって然るべきなんて思って古井由吉は読まないわけだが、それにしても、怪談的にでもなく艶噺的にでもなく、セックスの殺伐とした面とか、死者を話題にあげたことで雰囲気がどう転ぶか分からなくなった時のあいまいな恐怖感とかは、読んでいて背筋が寒くなるようなところがあった。その感覚を捉えられるからこそ、現代風俗の中での関係を描いていても、どこか霊的・神秘的な手ごたえが生まれるということは分かるのだが、自分が今からどれだけ古典を読んでも、そういう境地に行き着けるか知れない。

 

大澤真幸サブカルの想像力は資本主義を超えるか』を読み、「実際の講義を基にテクストにしたもので、読みやすくはあったけど、やっぱりもっと詳細な言及が欲しいな」と思っていたら、積読していた『不可能性の時代』が、まさにそういう範囲の論考で、難解だが頑張って読んでいる。『不可能性の時代』はオタク論に終始した内容ではないが、オタク論を読もうとする時、自分と近い世代の論者より、もっと上の論者に肯定できるものを感じ、そちらのテクストを読もうとしてしまうのだが、この辺を自分なりにちゃんと総括できる日は来るのか。

 

最近、趣味で音声編集ソフトを触っている。映像編集は大学時代に少しだけやったことがあって、操作感はそれと近しく、懐かしい楽しさがある。既刊小説本は、ハウツーを何度見てやっても任意のページにだけノンブルを付けない処理がうまくいかず、「一部のノンブルだけ、テキストボックスを上のレイヤーに設置して潰す」というバカ丸出しの方法で体裁を整えている。そんな程度のPCスキルでこれまで活動してきたので、ダイナミクスレンジの調節とかもっと良いやり方があるんだろうな……と思いながら手さぐりでやる感じがまた楽しい。新しいものを触ると、脳のこれまで使っていなかった部分が動く。