キャベツは至る所に

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細野晴臣の『アンビエント・ドライヴァー』を読み始めた。Twitterでフォローしている方に勧めていただいた本だ。そのセンスと知識、電子音楽に関する審美眼に対して、全幅の信頼を寄せている方の勧めなので、きっと有意義な読書体験ができるだろうと思っていたが、案の定めちゃくちゃに面白い。

内容には稿を改めて触れる(かもしれない)として、ぼくはエッセイのたぐいをあまり読まない。雑誌を読む習慣がほとんどないので、気に入った連載の単行本を買うということ自体、マンガ以外では皆無に等しい。

だからというか何というか、文章を読んでいて、細野さんの話し声と顔があざやかに浮かび上がってくるのが面白い。話し声を聴いたことがない作家のエッセイでは、こうもいかない。声をよく知っていても、こうあざやかにはならない。俳優やアイドルがブログで書いた稚拙な文章を読んでも、ちょっと頑張らないと細野さんのような精度では声も顔も浮かんでこない。声とビジュアルが自分のなかにデータとして多く蓄積されていて、なおかつ著者のノリが文章にちゃんと染み渡っている時に限り、こういう感覚に陥るものなのだろうか。

 

文章を読むとき、文章を頭の中で「音読」している人とそうでない人がいる、という研究の話を聞いた。ぼくはどんな文章を読んでいても、(声の記憶があざやかであれば)誰の声ででも、意識下で音読させることができる。メディアミックスされているマンガを読んで、キャスト以外の人の声でセリフを再生させるのは日常茶飯事だ。役者の声でも、友達の声でもできる。

そういえば、記憶力は食い意地とイコールである、という話を聞いたこともある。つまり、美味いものの記憶があざやかであるほど、それをまた食べたいという欲求もいや増すということだ。そういえば、ぼくは食い意地もめちゃくちゃ張っている。記憶力の良さは自他ともに認めるところだ。

 

なんだか記憶力のよいことがそのまま業深さに繋がっている気がしてきた。死のう。それとも『アンビエント・ドライヴァー』に、Mr.マリックから聞いたという記憶消去術が載っていたので、そのうちやってみようか。

3/17

夜勤に出るための通勤経路に、ひんぱんにキャリアカーが停まっているのを見かける。上層、下層に合わせて六七台は載せられるだろうか、自家用乗用車を満載にしているところにちょうど出くわす。集合住宅の多いエリアではあるが、ごく近くにディーラーがあるというわけでもない。どうしてああもひんぱんに見かけるのだろう? まあとにかく、交差点にさしかかると三車線になる大きな道路の左端を、夜の道が空いている間しんしんと閉ざし、ぼくが仕事を終えた朝には跡形もなく消え去っているその車を、血の流れで摩滅する動脈瘤のようだといつも思う。

何かを満載にした大型車は、どうしても見かけるたびに大きな事故を連想する。荷を固定するものがヒューマンエラーのせいで働かなかったり、経年劣化が進んでいて器具が壊れたりして、荷が散乱する様を思い浮かべる。自分が生来のドジだからなのだが。

エスカレーターは左右両側にステップを動かすためのベルトがあるから、人が片側に寄って利用することが続くと、片方の摩耗が早く進んでしまうと聞いたことがある。例えば全ての使用者がロボット化して、さまざまな行程が最適化されたら、エスカレーターのベルトの偏ったロスなどは真っ先に無くなるだろう。最適化された作業しか起こり得ない以上、部品単位の消耗の進み具合もシミュレーションの値と乖離しなくなる。固定器具が壊れて車の積み荷が散らばる可能性もグッと低くなるはずである。

知識を補填しながらテレビゲームをやりだす前、それこそ子供の頃からこうした「理論値」というものについては妄想することが多い。麻雀を覚えた頃、ゲームとしての複雑さを理解するたびに畏怖めいた感動を覚えたものだが、麻雀は不確定要素との格闘が醍醐味であるから、「この配牌とこのツモで最高得点を作る」という理論値追求が、イコール最善手とか興に耽る遊び方ということにはならない。麻雀ゲームのTASのほとんどが、技巧的な織り細工のような面白さしか持たない所以だ。

3/16

友人二人とあらたまって音楽の話をしていて、自分は音楽を聴くときにずいぶん意味を重視しているものだ、と思い知らされた。

どんなにミニマルでも、曲には展開というか起伏が生じるから、同じ言葉を使うにしても、どこに配置するかで聞こえ方がまったく違う。たとえばぼくはFという和音の響きに、明解さというか、別解釈の探しようがない単純な何かを感じる(ギターでもだが、鍵盤だと特にそう感じる)。楽典的知識はまったくないので、もう具体的な喩えはできないが、つまり響き自体にも、意味へ通じる扉だとか、増幅させるに相性のよい意味合いとかがあると思う。ぼくは旋律や音色で膨らんだ意味に触れるのが、とりわけ好きなのだ。

特定の曲を引っ張ってきて説明してみる。butajiの『飛行』という曲が、初めて聴いた2014年の元旦以来ずっと好きだ。フックの中に「ふざけきれない二人の幕開け」という歌詞がある。「幕開け」は裏声で伸ばして歌われるのだが、何度聴いても「幕開け」という言葉があざやかに聴こえてくる。「幕開け」という単語が、「Makuake」という音をもって成り立ったことを深く納得させるかのように。広がっていくものを目の前に見せるように。そういう感じ方をする瞬間が好きでたまらない。

思えば小会場に弾き語りを観に行く率が増えたのも、こうした嗜好が強まってきたせいがある。シンガーソングライターは意味なく詞を選ばない。「思い付いただけ」というフレーズにも、往々にして、琴線に触れる経験とか読書体験による由来がある。その濃い意味にたくさん接触したい。

楽曲の一番シンプルな姿がスコアであるならば、歌声の個性もフレージングも添加物ということになる。しかしスコアの再現性を求めてライブに行く者はいない。その時々のボーカルや演奏で曲自体が揺らぎ、存在していた意味が浮かび上がってくるのを捉えたいから、ライブに行くのだ。さっき和音にも意味を見いだすと書いたとおり、この感覚はインストを観る時にも通用する。放埒な演奏には放埒なりのエネルギーや馬鹿さ加減があり、音源を再現しようという演奏には凝り固まった硬い微震動がある。そうした(音源からの)ブレから、曲自体に変わらず存している情景とか主張を見いだすのが楽しい。

近年ようやくアイドルを聴けるようになったが、アイドルを好むということは、畢境タレントの個性に対して造詣を深めるということだから、考えてみれば、こうした聴き方をする人間がアイドルソングを愛好できて当然であろう。

他の二人は、もっと音や声そのもの、なぜその演奏の様式や組み立てを選んだのか、全体がどのように聴こえ(て何が視え)るかといった点に重きを置いて判断し、音楽に快を見いだしていた。ぼくなどよりもよっぽど、音楽の快のコアな要素に敏感であると言える。音楽を聴いている間に、あまり思考を働かせるのは好ましくないと承知しているが、ライブだと時々集中が自分の思考の方に傾いてしまうことがある。やっと感受できた意味を、風化しないうちに記憶しようとしてしまうのだ。基本的に音楽を聴くのにも、多分演奏するのにも向いていないのだろう。