キャベツは至る所に

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『夜々の泡』

 夜遅いホームで電車を待ちながら、ヘッドフォンで音楽を聴いていたら、自分とこの曲しかこの世には残されていない、と思った。

 家へ帰ろうとしている。電車は遅れなく、この駅に近づいてきている。それなのに、「どこか」も「誰か」もこの世にはもうなくて、閉じ込められるまでもなく私はこの音楽と二人きりなのだ、という気がした。

 初めてのことではない。人間は音楽に寄り添えるし、夜は人を取り残す。こうしたところに辿り着くのは、いつものことではないが、稀なことでもなかった。

 子供の頃、まだ夜が眠りのためだけの時間だった頃、寝ている最中に落下するような感覚をおぼえるのを、公転や自転から置いてゆかれそうになっているのだと信じ込んだことがある。夢うつつの脳が身体を誤作動させるのだという説明より、夜が仕掛けたいたずらに驚かされているという実感の方が、今でもよっぽど腑に落ちる。思えばあれが夜への不信と、不信からなる魅了のはじまりだったのかもしれない。夜が単なる一日の終わりではなくなった時、人間の幼年期は終わる。紙や塗料が日の光で褪せてゆくように、人の若さは眠りに守られていて、眠らない夜更けを経るたび人は老いてゆく。昼には狂わずに済んでいたものを見聞きすることで。

 私は夜を頼りにはしていない。いくつもの宝物を見つける中で、夜から何かを探り出すことの難しさや辛さは知ったつもりでいる。それでも時々、暗闇に目を凝らしてしまう。底なしの不安に陥ったことや、記憶が今をも未来をも切り裂きそうになったことは、一度や二度ではない。それでも夜を見る。

 闇は美しい。しかし、夜に輝くものは、とりわけ綺麗だ。

 走り過ぎてゆく自動車のヘッドライト。二十四時間営業の店の灯り。木々がたくわえた闇と、重たい闇が揺れて響かせたような葉擦れ。晴れた夜空に透けている宇宙の暗さ。そして音楽も、寝床の中で見る人の肌のように、夜の中でぼんやりと明るい。

 夜の静けさの一番濃いところに浸すようにして聴いていると、その音楽を嫌いになれなくなる。善い音楽は、食べても減らない果物のようだ。甘い実の、一番甘いところをかじった時の幸福感は、今こうして音楽を聴いている時の気持ちに似ている。

 中でも、歌。言葉を伴った歌。今の私がこうして聴くことを想って作られたはずなどないのに、まるで私の心から発せられて、私のこの手へ捧げられたような、私ではない人の声と言葉。

 時刻を確かめる。まだしばらく電車は来ない。

 山場を迎える前に、曲を頭まで戻した。電車の音に妨げられることなく、最後まで聴くことはできる。何度も聴いた曲。どうやって始まり、どのように広がって、そして収束していくか分かり切った後に、ようやく為しえる音楽の愛し方がある。夜更けに狂い始めた自分を使って、その愛だけになろうとしてみる。宇宙全体を回転させる、誰にも食い止められない力の中に、その曲が響いている間だけ、私だけの場所が生まれる。透明な胎。ごくさりげない変態をもたらす繭。静けさが訪れると溶けてしまう莢。

 目が力を失い、耳だけが生き生きとして、世界や刺激と向き合おうとする。そこにあなたなど少しも立ち入ってこないのに、あなたを想わずにはいられなくなる。誰かの歌を聴くということは、結局そういうことだ。それが誰なのか分からないままでいい、あなたへと想いを馳せることが、歌を愛するということなのだ。

 誰の人生にも、そういうあなたがいる。そうでなければ、愛なんて言葉はこんなに流行らなかったし、歌にここまでのチップは賭けられてこなかった。

 本当は、この世界には「私」と「あなた」しかいない。それでも、そうしないとベッドもテーブルも水平を保てないというように、私は「私たち」や「あの人」という単位で人をまとめようとしてしまう。そんな私を、歌は時々、私とあなただけにしてくれる。私は勝手にあなたを想う。

 曲が終わった。簡単な指先の動きで、もう一度その歌を聴き始めることはできる。けれど、そうはしない。もったいないような、そうしたらその歌の何かが損なわれてしまいそうな気分がした。もう一度その曲をかけることを考えると、飛ぶつもりもないのに高い所から身を乗り出して、遥か下の地上を見た時のような心地がする。いや、飛んだのは、飛んでいったのは歌の方なのだ。もう今夜は帰ってこないと分かっているから、もう一度聴こうとなんてできない。私のところへ、あの歌がまた戻ってくるまで。

 歌に聴き惚れたせいか、誰かとの想い出が歌のせいでうごめいたのか、瞳が潤んでいた。すべての光がぼやける。瞼を閉じて、涙を頬に落とした。羽ばたく音も立てずに、歌はもう飛んでいった。目をつぶっていると、私の中に、私だけが残っているのがよく分かった。

なぜか関西-4

 ホテルで長く過ごしているうちに、会話の節々でつい、ホテルを指して「うち(家)」と言ってしまうようになった。まあこれは習慣の積み重ねによる素朴な変化だと思ったが、ルームキーのインロックをして初めて、自分の感覚がホテルを家と捉え始めていることに気付いた。

 というのも、コロナ対策として消毒を行なうため、ホテルでは2週間ごとに部屋換えがある。つい先日も最後の部屋換えがあったばかりだ(どうやら10月いっぱいで帰れるらしい)。ホテルでの生活が始まっておよそ1か月強の間使っていたそれぞれの部屋では、ルームキーを入れるスロットが(部屋に入った視点からすると)ずっと右側にあった。数回目に入った部屋で初めて、スロットが逆側に来た。次にその部屋から出たその時、早速インロックした。部屋を出て行く時に左側のスロットからカードを抜き取る、その動作が身に付き過ぎて、逆側のスロットを注視する意識が全くなかったのだ。

 「家という感覚」は、こういう単純な左右の感覚とか距離感とかによって育まれるのだと思った。ベッドから出てトイレのドアを開ける、それまでの足の運びだの腰のひねりだの腕の伸びだの、その淀みのなさ、その時の不安のなさにも、「家」としての体感を感じた。ずっと実家で暮らしてきた。四半世紀は同じ家に住んでいる。遠くないうちに引っ越すことが予定されているのだが、新居でもそうした順化が待っているのだろう。

 

 ところで、かつて夜勤をしていた者として、モーニングメニューを食べて退店する時にお店の人から言われる「行ってらっしゃいませ」の飲み込みづらさをなかなか忘れられない。あれを言われるたび、「いえ、これから家に帰ります」という応答がぶわっと胸にふくらむ(別に声に出したいわけではないのだが)。

 破格の連泊をしているために、腫物に触るような、と言うとホテルの方に悪いが、スタッフの人たちから気を遣われている気がする。その分、直接の接客を旨としない清掃スタッフの人たちとかが、単に「客」として接してくれるのが楽だ。先日、部屋換えに際してフロントに元の部屋のキーを返しに行き、「お戻りは何時ごろでしょうか」などと丁重に訊かれ、ゲーセン行ったりリハスタでギター弾いたり喫茶店で本読んだり昼メシ食ったりして帰ってくるだけなんで2時ぐらいでしょうかの「2時ぐらいでしょうか」だけ言って、「かしこまりました、行ってらっしゃいませ」と送り出された。そのまま外へ出て行ったら、出入り口で清掃の人から「ありがとうございました」と言われた。フロントで「帰りを待っている」と言われたばかりなのに、出入り口で早速「さよなら」を言われる、その食い違いが心地よかった。これが心地よかったのは、上記のような「家という感覚」が錯覚に過ぎないことを知らしめる出来事だった、から、かもしれない。家族から「行ってらっしゃい」と「元気でな」を間違えられることなんかは、あまりない。

 

 もう4か月も前の話になるから、自分でも細部を忘れそうなので記しておく。初めに使った南向きの部屋から、遅くまでエレベーターが動いているビルが見えた。ガラス張りになっているので、エレベーターの機内から外へと漏れている光が見え、その上下動が見て取れた。自動運転のそれではない不規則さで、エレベーターは頻繁に動いた。外観だけ見る限り、エレベーターは4基あり、そのうちの3基だけが稼働しているようだった。入れ替わりなく決まった1基だけが動かないようになっていたので、節電のためだとか、貨物用のものが停止するとか、そういうルールがあったのかもしれない。

 その光を見るのが好きだった。関東から来た者としては、梅田~北新地~堂島という繁華街と歓楽街とオフィス街が何の気なしに歩いている間に入れ替わる土地の感じになかなか楽しく混乱していて、仕事を終えて夜部屋に戻った時、遠くのビルで光点が上下するのを見ていると、何となく気分が落ち着いた。船乗りが星を見るようなものだったのだろう、と言うと気障だが、多分、実際そうだった。馴染みのない街で働き始めて、毎晩必ずそこで光るものを見るのは安心できた。また、少し遠いのが良かった。目には見えるけれど関わりのない所で人が働いている。それだけを分かる。それが良かった。

 別に知ったからどうということもないと思うが、そのビルにはどんな企業が入っているか、ついに見に行っていない。そのビルが窓から見える部屋は、初めのその部屋から移ったあと割り当てられなかった。冒頭に書いたように、部屋換えはもうない。ぼくが大阪を離れようが、あのビルが解体されようが、もうあの光は消えも止まりもしないのだ。ぼくの瞼の裏では。勝手なものだと自分で思う。

なぜか関西-3

 最近、音楽が全然聴けない。ノートパソコンとスマートフォンもあるので、ホテルにおいても、配信音源を買うことだって配信ライブを観ることだって出来る。ただ、そこに辿り着かない。正確に言うと、音楽を再生することはある。しかしそのとき聴くのは、それを聴いて自分がどうなるか分かっている曲だ。

 「久しぶりにこのアルバムをかけてみよう」と思う時、人は存外多くのことを期待している。まだ自分がその盤から見つけられていなかったものをついに発見することを夢見ている。意識から外れたところに隠れている記憶が光り出すのに驚きたがっている。最近の自分の音楽の聴き方はそうではない。今口に入っているガムが甘いうちに次のガムを噛もうとしているだけだ。ジンジャーエールを久しぶりに買って、驚いたり懐かしんだりする心の動きはそこにない。これでは音楽を聴いているとも楽しんでいるとも、とても言えない。ただ音楽を使っているだけだ。そう思いながら、丹念に聴こうと出来ない。

 「ライブを観に行く」という要素が突然抜け落ちて、いまだにバランスを取り戻せずにいる。ここ数年、年間で50~70本はライブを観ている。趣味というには充分な数だが、気合が入っているとは言えない数だろう。それでも、その回数の分だけ、電車に乗って会場へ赴き、帰り道で感想や何かをTwitterに残すことがなくなるというのは、自分にとって大きい。

 ここ最近、ずっと音楽を聴けない自分に苛立っていた。つまり、自分の愛が単に習慣に支えられていると思うのが嫌だった、ということなのだろう。新型コロナウイルスの蔓延で習慣が大きく変わったことは言うまでもない。外へ飲みに出ることも減った。これまで、特定の店でライブの企画をしたり、いくつかのヴェニューを小説の舞台とさせてもらってきた。そうして世話になった店があり、自分はそこへライブを観に行ったり飲み食いしたりしに行きたいのに、外出そのものを躊躇わせる原因がある。それはとても歯がゆかった。

 しかし、いきなり大阪での滞在が始まり、そこからまた一つ、気の持ちようが捻じれた。そういう店に、簡単には行けなくなった。行けないことに諦めが付けやすくなった。というか、行かなくていいことに気付かされてしまった。本当はあの店に行きたくなかったんだ、と思い至ったということではない。しかし、もう行かないという選択肢はずっと在り続けていたことを思い知らされた。そういう店でだって、ずっと楽しい想いばかりしてきたわけではない。しがらみは遠ざけられないし、そこに費やす時間や金は他のことにも遣える。仕事のことでいっても、大阪に留まりたいと言えば、自分が入れる枠はある。生まれ育った土地や、近くに住む友人たちに別れを告げる、そういう選択肢自体はある。それを選ぶつもりはないのだが、それがあることを知らしめられると、今まで自分がそうしなかったのは何故なのかを考え直させられる。

 

 以前、音楽に関係する仕事をしている人から、無理に音楽を好きでいる必要はない、と言われたことが、ずっと心に残っている。お互いかなり酒が入った夜半過ぎ、二人きりでいる時だった。自分という人間をどれだけ見透かされて言われた言葉だったかは分からない。二人きりでありながら、ぼくだけに言われた言葉ではなかった。自分もそうなのだという調子で、そう言われたのだった。

 歌を書いたり歌ったりするのは楽しい。ありがたいことに「もっとライブをしろ」とか「お前の歌からは、お前の歌だ、って感じがする」と言ってもらったことがある。友達と二人、デュオとして曲を作っている。相方に楽器を使って呼応するのが楽しい、というレベルの話だが、これも楽しい。音楽の快楽の精粋を、少しなら知っているつもりでいる。しかし今の自分に無理がないかと言われると、まったく否定するのも難しい。その無理は自分から引き受けた自覚もあるのだが。

 二十代の大体は、小説を書いて賞に送っては何の結果も出せないことの繰り返しだった。現行のミュージシャンをたくさん知ったことで、音楽の趣味は広がっていったが、基本的に時間を充たしていたのは挫折感だった。それでも、遅々とした歩みであっても、何かが進んでいる気がして書いていた。その頃、酒はもうよく飲んでいたが、常連扱いが苦手で行きつけは作らずにいた。二十代の終わり頃、地元に程近いところでそうした扱いが苦でない店に出会い、親戚付き合いが関わらない地縁による人付き合いが初めて出来た。ざっくり言うと、ライブを企画するようになったのもそこで生まれた縁による。SNSを用いずに新しい友達が出来るのはものすごく久しぶりのことだった。感想やレビューを読んだ人から文章を褒められたり、レビューで言及したその人本人から感謝されるというのも、新しい交友関係で起こった新鮮な出来事だった。書くことで挫折と微々たる進歩以外のものを得た、初めてに近い経験だった。

 今、音楽に触れている自分は、人に近すぎるのかもしれない。本当はもっと人と関係なく音楽に触れたかったのかもしれない。今やそれは誰かへの不義理だと捉える自分もいるし、そこで勝手が出来なくて何を楽しむというのだと思う自分もいる。

 

 小説を書き始めた頃は他人が分からなかった。書くこととは関係なしに、もしかしたら自分は他人のことをよく洞察し、親密になった誰かの気持ちをよく読み取れるのではないか、という自信が次第に付いていった(一度はそういう自信を持てないと生きていくことが不安過ぎた、と言えるかもしれない)。その頃がキャラクターを造形することに一番自信があった時期だと思う。今、またよく分からなくなっている。仮に自分に平均より高い共感能力があるとして、それを表現においてどう使えばいいのか分からなくなってきている。誰かと深いかかわりを築き、その人の個性を小説に吸収できると思っていた時期が確かにあった。今、あるキャラクターの核となる主張、言わせざるを得ない台詞のことを考えるとする。それが友人Aを鼻白ませ、友人Bの琴線に触れ、友人Cを怒らせ、友人Dに辛い記憶を呼び起こさせ、友人Eの萌えを誘うということを一瞬で悟ることがある。近しい人とて、全員を満足させることは極めて難しい。そして近しさゆえに、それぞれの喜びも趣味性も悲しみも怒りもよく知っている。その5人全員に読まれるとは限らないのに、その5人だけに読ませるものではないのに、たじろぐ自分に気付く。ここでたじろいでいるやつに何か書く資格があるのか。

 過渡期だ過渡期、と言って済ませたい問題ではない。自分の正しいと思う表現を貫くのが作家だという声も、そんなにあれこれ考えるならしがらみなんてかなぐり捨てろという声も、どこかにはあるだろう。そのどれにも従いたくない。

 自分の感情と思考がコントロールできなかった年頃のとき、あのときの苦痛や不如意が、自分を創作に向かわせた自覚がある。あのころは、希死念慮を「うまくやり過ごせれば今よりは弱まる時が来る」というものだとは捉えられなかったし、そう思いかけていたけれど結局そうではないことを、自死遺族の方と話す機会があって痛感した。今ここで他人との関係について「今そういう気分でいるから思い悩んでいるだけだ、いつかは違う気分になる」と片付けてしまうと、ぼくには本当に書く資格がなくなる。「やり過ごそう」で全てやり過ごせるなら文章なんて書いていない。