キャベツは至る所に

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備忘録など

2020年、そして今年2022年と、小説集を作った。それまでに書いたものから、出来映えや文字数、内容を勘案して3本を選った『世界はいつも』。そして最近作2本を入れた『海の中のプール・空想』という2冊である。

作品の出来については、多分考えることは年々移ろっていくので、モチーフだとかディテールについて、いま何か書き残しておきたいとは思わない。しかし、刊行の動機や制作の過程にしろ、それぞれを作ったあとの感懐にしろ、そうした記憶はおぼろげになり出しているように思うし、ようやく次のものを書き出しもしたので、久しぶりにこのブログに何かしたためておくかと思った(そもそも、せっかく自分のブログがこうしてあるのに、「本を作った」と発表していないのも何かだらしない)。言ってしまえば利己的な文章になるが、ご興味があればお付き合い願いたい。

 

どちらの本も、文庫本の体裁を模して作っている。理由は二つある。持ち歩いて読みつぶしてほしいというのと、適した紙を知ったという二点だ。文庫本の本文ページには「ラフクリーム」「淡クリーム」といった紙がよく用いられる。同人作家諸氏からすれば初歩的な知識なのだと思うが、この紙の存在(というか名称、つまり発注のためのコード)を2018~19年ごろに知ったことが、書いたものを本にしようか、と思うきっかけになった。『世界はいつも』に着手する前に、試しにラフクリームを使って詩集を刷ってみて、手ごたえを感じたことで踏ん切りがついた。

ある時期まで、自費出版には興味がなかった。新人賞へ応募していた時期が長くあったからだ。誌面に載ることができなかった書き手が、自分で本を刷って人に作品を見せようとするのは、道から逸れるような、勝負から降りるようなことではないかという念が、どこかにあった。実を言うと、2冊の収録作の中には、新人賞などに応募して落選したものも含まれている。

そうした思いの一切が掻き消えたわけではない。ある種の規格に合格するものを、何年かけても作ることができなかったという意識が消えることは恐らくない。文学の先端にあたる部分(があるとして、そこに)立って、先導して何かを突き詰めるような立場が自分には任されず、それはひとえに、自分にそのための力がなかったためなのだという挫折感もあるし、実際そんな才覚を今の自分には感じないことへの絶望、残りの人生を費やしてもそんな事業の末席に加わることすら出来ぬのではないかという絶望もある。

しかし、著者自刊本を出すことへの抵抗について言えば、今はまったくない。同時期に音楽ライブの小会場に足繫く通い、ミュージシャン自身と親しくなったり、数回ライブ自体を企画したりして、自主制作活動の魅力、その人たちの努力や意識に触れたのも一因であれば、アートワークの部分を任せたいと思えるクリエイターや、真摯に本を扱ってくれる店舗との出会いも大きい。できるだけたくさんの人に屈曲なく何かを届けるにはどうすればよいかという問題は、現代においてとてつもなく難しいものだが、自分の今のタームは間違ったものではないと思っている。

それに、書かない理由も、今のところない。先に述べた挫折感や絶望は、言ってしまえば私事なのだ。ぼくよりも小説全体の方が「大きい」ことは疑うべくもない事実であり、先述のような実感のゆえに書かなくなるというのは、いくら自分の人生だからとはいえ、結局小説よりも自己を大きく捉えているための態度だとも思う。その捉え方は正確ではないし、正しくないことは出来る限りしたくない。

 

制作の手順だけ言えば、2冊ともシンプルだ。収録する作品を見つくろい、文書作成ソフトで文庫サイズ(B6)に原稿を調整。印刷業者に依頼して文庫本の本体を刷り、刷り上がったものをデザイナーにパス。採寸の上で表紙などを制作してもらう。

表紙の制作は2冊とも Tact Sato 氏にお願いした(『世界はいつも』ではしおりも作ってもらった)。どちらについても、できれば内容を読んでもらい、その上で湧くイメージから作ってほしいと頼んだところ、承諾してもらえた。大忙しのタクトさんに申し訳ないとは思ったが、装画は内容を踏まえて描かれてほしいというこだわりから、わがままを言った。結果、書き手としては空恐ろしくなるような精緻な汲み方でもってビジュアルイメージを作ってもらえた。感謝に堪えない。小説集とは別に、タクトさんとは違う方たちにCDのアートワークやイベントのフライヤー、冊子の表紙を作ってもらった時にも感じたことだが、そうした自分の手の及ばない作業を、自分の意図を汲んで全うしてもらった時の感動というのは、筆舌に尽くしがたい。

店内での個展を観に行ったり、タクトさんが直接パイプを繋げてくれたりして、茨城の書店・つくばPEOPLE BOOK STORE に、どちらの本も置いていただいている。無名の書き手の自刊本を扱ってもらえるだけで光栄であることに加え、2冊目の制作が佳境にさしかかり、次も置いてもらえるかと店主の植田さんに恐る恐る打診した時、「もちろん」と即答してもらえたことは、いま作っているものが何とも連絡しないものではなく「2冊目」として扱われるものなのだと初めて実感できたタイミングで、大変励みになった。下にリンクを貼ったエントリも心底嬉しかった。

people-maga-zine.blogspot.com

 

何か書こうとすると謝辞が先走る。仕方のないことだ。しかし、もう少し他のことも書く。

 

『世界はいつも』は、古いものは2013年ごろ書いたもの、最も新しいものでも2016年ごろの作品で、収録した3作ともかなり手を入れたが、完成に至っても「書き上げた」という感慨はほとんどなく、感慨の多きを占めたのは「これでやっと手を放せる」というような解放感だった。一度完成を謳おうが本を刷ろうが、文章を直すのは書き手の権利だが、ただ文書ファイルがPCに残っている状態と、すでに本を刷った状態とでは、手を入れたときの責任が異なる。漢字の開きや読点の位置といったごく一部の変更も、文章全体のリズムや質感を変える。読み手を時計に喩えるとき、小説は時計の動力に過ぎないことを考えると、本として人が見られるようにした後に文章を直すというのは一大事だ。

だからこそ、書き手の立場からむしろ無責任に言うと、内容をこき下ろされようが雑に読み飛ばされようが、「出来た」と宣言してしまえば、もうあれに触り続けなくてよいのだという解放も感じる。ぼくが進歩、または変節し、今後大幅に改稿をすることもありえないとは言わないが。

コロナ禍においての刊行となったことは、棄民政策と呼ぶべき国の態度や自己責任論を振りかざす言説(当時に始まったことでも収束したものでもないが)に疲弊し切り、落ち込んでいた精神状態を保つ意味で、支えになった。一方で、PEOPLE以外にも置いてくださる書店はないかと思いつつ、感染問題を考えるとおいそれとは書店巡りにも出られず、また一度もお店を見ず/利用せずに自著の取り扱いをお願いするというのも気が引けて、そうしたステップに進めないことへの苛立ちもある。そのため、書店のご紹介など頂けると、誠にありがたい。

 

『海の中のプール・空想』は、書くペースが全く異なった2本である。『海の中のプール』は2019年の暮れにプロットを思い付き、およそ1か月で4万字強の初稿を書き上げた。その後しばらくほったらかし、2020年(別のエントリに書いたが、仕事の関係で自宅を離れ、大阪に居留していた時)手すさびに直して、約5万字に膨れて完成した。一方、『空想』は着想だけ何年も前からあり、書き出しを書いてはボツにするということも一二度やり、ようやく肚を決めて2021年のほとんどを使って7万字書いた。

この話は何万字になる、何万字ぐらいにしたいと思って書き始めて、想定した字数から数千字の誤差が出るということはほぼない。『空想』は初めて1万字以上ずれた。しかも、最近作ではあるが、文章そのものにしろ梗概にしろ、「まとまり」みたいに呼ばれる点は他作品のほうが優れていると思う。小説として、自分の普段のバランスを欠いた作品であることは確かだ。しかし、そのバランスこそ自分の欠陥ではないかという疑念もあり、満ち足りた思いもどこかにある(直近の作というのは、自己弁護に過ぎないのだが、どうも贔屓してしまう。脱却するには次を書くしかない)。読む人がどう思うかは分からない。バランスを失っているのを承知で書き切った身としては、多くの人に認められずとも、気に入ってくれる人がわずかでもいてくれると幸福になれる。

2冊出すというのは、そういうバランスが可視化されることでもある。むしろ『空想』をぼくの本道と捉える人もあるかもしれない。それはそれで楽しい。

 

また本を作る気はあるが、今のところ同じ体裁で作る気はない。ストックや書こうとしているものに対応して、2冊の形が出来た。今は掌編から少し足が出たぐらいのサイズの短編を散発的にたくさん書きたいと思っていて、そういうものを収録するなら造本ももっとラフにしたい。

短編と長編の違いについて考えたことのある人なら分かると思うが、この二つは構造にしろ読み手に与える印象にしろ、全く異なる。書く側からすると、求められる能力というか、使う筋肉まで全く違う。

長編はアイディアやギミック、メッセージだけでは書けないとされる。骨組みをしっかり作らないと、そうしたものをうまく中心に据えられず、転倒する――とされているが、逆の言い方のほうが正しい。骨組みをしっかり作って核を支えようとするために、そのぶんの質量によって、作品が長編と呼ばれるサイズに行き着くのだ。そして時として、苦労して作った骨組みのほうが、構成要素として優先される。一方、短編は核だけで自立させられる。他の要素をぶら下げず、芯さえ立たせることができれば、重心が傾ぐことはない。

まとまった文字数のものを去年書いた反動もあるが、着想とか仕掛けだけのもの、もしくはその逆に、これというアイディアも仕掛けもなく徒然に書いたもの、そういうものをしばらく書きたい。これはアスリートの体づくりと技術練習のバランスのようでもあるし、酷使した乗り物のオーバーホールのようでもあるし、しばらく暴飲暴食してたから節制するか、という気持ちのようでもある。

 

・2022年9月追記

People Book Store が間借りしているWebショップ『平凡』でも、拙著をお求めいただける。

hey-bon.stores.jp