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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『ラヴ・アフェア』

オタクの小説です。

 

 あすかの近頃は光を帯びていた。冬休みの朝の布団の中で、閉じたまぶたを透かして見るような、くぐもった光だ。考えを暗くしがちなあすかには、幸せを確かめるのに充分な灯りだった。あまり強い光は、却って彼女を戸惑わせた。成功の記憶を留めておくより、失敗の数をかぞえ直す方が、あすかは得意だった。幸せを見るのに使った灯りは、不幸せを照らすことが少ない。気が滅入るものに出くわすことが減ったと実感するたび、あすかは何かへと感謝したが、ただ当たりくじを引き続けているだけかもしれない、とも思った。だからといって不幸せの中に身を投じて、自分の同情だけで心地よくなれるほど、陶酔が上手いわけでもなかった。

 

 金曜日の夜、仕事帰りのあすかは、最寄り駅の近くのレンタルショップに寄った。夫の一輝(かずき)は、学生時代の友人と宴会の約束があって、今夜の夕食は要らないと言っていた。急いで帰って、食事の支度をする必要はない。自分の夕食は店で済ませていた。一輝は明日も仕事があるので、あすかは何かDVDを観て休日を過ごそうと、何日か前から思案していた。

 蒸し暑い外気は、店の入り口で遮断されていた。何千時間もの映像データが滞留している空間に似つかわしい、人工的な涼しさが店の中に淀んでいる。新入荷の棚には、この間珍しく一輝と観に行った映画が、もう並んでいた。時間の流れを早く感じるありきたりな驚きと、ロードショーからレンタルへ至るまでの機構への畏怖が湧く。暇潰しというより菓子を楽しむように映像作品を観ていた学生の頃には、思いもよらなかった感慨だった。

 まとまった時間がある分、選択肢は多い。あすかたちは埼玉で暮らしている。都心の店舗には敵わないまでも、この店は広く、品揃えが良かった。様々な棚やパッケージを見て、明日の自分の心持ちと噛み合いそうなものを探していると、昔好きだった学園もののアニメを見つけた。好きな声優が出ていたせいもあるが、初めてアニメーターの名前を覚えるきっかけとなった、思い出深い作品だった。

 懐かしさからそのパッケージを手に取り、あらすじや作中のひとコマが載っている裏面を見た時だった。強い不安が前触れなく胸を駆け抜けたのに驚いて、あすかはパッケージを床に落とした。こちらへ歩いてくる客がいたので、邪魔にならないよう急いでそれを拾い上げ、棚に戻した。そうする間に、彼女の心は落ち着いた。しかし、棚に戻したアニメのパッケージは、それからもずっと不安の尾をちらつかせていた。あすかはそこから離れて、別の棚から、七泊百円になったばかりのアニメを全巻借りた。最近の作品は放送期間が短く、数百円ぽっちで通して観てしまえる。

 十五分ばかり歩いて家へ帰ると、収納台とデッキの間の僅かなスペースに、借りてきたDVDを隠すように置いた。洗濯物を取り込み、その間に沸かしていた風呂に入った。九月も終わりになり、残暑も穏やかになってきたが、駅からマンションまで歩いてくれば、じっとりと汗をかいてしまう。あすかは日頃運動をしないので、部屋のある三階までは歩いて登ろうと努めているが、今の時期はエレベーターを使いがちになった。

 風呂から出て窓を開けると、湯上がりの今は涼しく、次第に生ぬるく感じ出す風が入ってきた。冷蔵庫の水を飲みながら、取り込んだ洗濯物を畳む。何となく耳が寂しくてテレビを点けたが、映っているのが何の番組か、定かには認識していない。仕事の倦怠が体の中で分解されて、疲労に変わり始めている。洗濯物を片づける動作によって、だるさと疲れと眠気の境目が、いっそう曖昧になっていく。先程レンタルショップで覚えたあの不気味な不安が、その混濁を助けていた。

 手が自然と止まった。常日頃繰り返している動きが、今日に限って。狭いリビングダイニングキッチンの中を、自分の魂がふわふわ浮かんでいるような心地がする。

(私のよく知っている方法で、この不如意は解消できる気がする)

 ぼんやりとした頭の中、やけに明晰な言葉が浮かんだ。しかし一瞬の閃きは、それを取り巻くふやけた思考に呑まれ、あすかはむしろ停滞に耽っていたくなった。そのうち自分で閃いた言葉にも鈍感になっていく――不如意、ふにょい、ふにょい、間抜けな響きですね――もはや洗濯物などどうでもよくなって、ただ漫然とテレビの画面を見つめた。焦点が合わず、結局かかっている番組が何であるか判らない。

 いつの間にかソファにもたれかかって、どれぐらい過ごしていただろうか。うたた寝をしていたかもしれない。玄関が開いた。一輝が帰ってきたのだ。今の格好は体裁が良くないと思い、急いで洗濯物を手に取った。

「ただいま」

「お帰り」

「ああ、今帰ってきたところ?」

「うん、お風呂はもう入ったけどね」

 あすかが立ち上がり、水を注いだコップを差し出すと、一輝は礼を言ってそれを一息に飲み干した。

「早かったんじゃない?」

「うん、一次会で帰ってきた」

 突然機敏に動き始めた自分の体に驚きさえ感じながら、あすかは畳んだものを仕舞い、タオルを洗面所に置くついでに、風呂の湯を温め始めた。あすかも一輝も、夏でも熱い湯に浸かるのを好む。下がった湯の温度が、じっとりとテレビを眺めていた時間の長さを事務的に証明していた。居間に戻ると、一輝が冷蔵庫から水を取り出していた。

「お風呂、ぬるいから、追い焚きしてる」

「ああ、ありがとう」

 あすかは先程まで坐っていたテレビの前のラグではなく、食卓の椅子に腰かける。一輝も、あすかと向かい合うようにして椅子に坐った。今度は一口ずつ、慎み深く水を飲んでいる。

「飲み会、どうだった?」

「そうだ、上条が仕事辞めたって」

「上条くんって、私たちの式で……」

「そう、号泣してた奴。前々から続けたくないって言ってはいたんだけど」

 興味があるというより、礼儀として問いかけた質問だったが、一輝は饒舌に応えた。夫の勢い付いた喋り方に酔いの鬱陶しい加速を感じながらも、あすかはそれを凌ぐ可愛げを見出していた。私の麻痺した体をいきなり動かし始めたのは、この人の世話を焼きたい想いだったのかと思うと、蜜が喉を滑っていくような快さが広がった。一輝の話を聴いて返事を練るごとに、あすかの体を重くさせた気だるさは段々と薄れていった。そして指先まではっきりと動くようになるにつれ、あの不安が体内に残り、今も循環し続けているのを感じた。

 

 翌日の朝、今夜は早く帰れると言う一輝を送り出すと、あすかは脱いだ寝間着やシーツ、ソファのカバーをまとめて洗い、掃除機をかけてからそれらを干した。ベランダに翻るリネンを見ていると、一輝より早く目覚めた今朝の涼しさを思い出した。今より少し厚いものを体にかけたら、また違った心地良さを感じられそうな涼しさだった。喉は冷たいものを欲していたが、今朝の予感が美味さを増すような気がしたので、久しぶりに熱い紅茶を淹れて、デッキの電源を点けた。昨日借りてきたDVDの読み込みが終わり、制作会社のロゴが出ているうちに、ちょうどよい位置にクッションを置き、買い置きの菓子を出す。効率よく家事を終えて、テレビの前に根を張れたことに、あすかは深く満足した。

 ネット上のそこかしこで誉め言葉を見ていただけあって、借りてきたアニメは良い出来だった。名前だけ聞いたことのある若い男性声優が主役を張っていて、あすかは初めて彼の声をじっくりと聴いた。二度目にディスクを交換しようとした時、その声優の声の質が、かつて惚れ込んだ俳優か声優の誰かと似通っているような気がして、ディスクトレイを開け放したまま動きを止めた。中学生……いや、もう少し分別のついてきた頃、噛みしだくように聴いた声だ。俳優かもしれないと思ったが、やっぱり声優だ。

 そうだ、あのキャラを演じていた人だと、その声優の名前や顔をはっきりと思い出した。その声優の声であれば、どんなつまらない作品だろうが、どんな役だろうが、手を出してみたいと思う頃があった。すぐにその人が演じたキャラクターやアニメの名前が浮かび、今しがた芝居を聴いたばかりの若手声優が、そのどれを吹き替えれば清新な印象を醸すか、しばらく考えた。あすかは若手声優の名前を、好きな服のポケットに忍ばせるように覚えた。

 あっという間に昼飯時になった。DVDを観ている間にビスケットをつまんだので、食事をしっかり摂る気になれない。一枚の食パンにハムとスライスチーズを乗せ、焼かずに食べて、冷めた紅茶を乾した。そして紅茶も淹れなおさないまま、続きを観始めた。

 あすかが観ているのは軍事もののアニメだった。ある国家が、士官候補生を戦線の支援に当たらせ、若者の活躍を喧伝することで国民の気運を高めようとする。あすかが気に留めた声優が演じる主人公は、士官候補生の一人だ。主人公たちは物資の輸送のために雪山を移動している途中、吹雪に見舞われ、今は使われていないトーチカに避難する。偶然にも、付近には彼らの国土への侵入を目論む敵国の秘密部隊が迫っており、主人公たちは妨害工作を行なうか脱出を急ぐかの選択を迫られる……。

 ミリタリー趣味のないあすかには、劇中で飛び交う用語のどこまでが作品固有のものなのか判然としなかったが、演出も芝居も、クローズド・サークルの中で高まっていく緊張をよく表現していると思えた。年端も行かない少年たちが命を落とすシナリオに良心を痛める一方、主人公と他のキャラクターが、実際の表現よりも密接な関係を築くシーンがことごとく頭に浮かんだ。主人公に同調する幼馴染、対立意見を持つ天才、技術に秀でた寡黙な最年長者――皆男性だ。作品の中で主人公が惹かれる少女を差し置いて、作中にありもしない彼らと主人公との会話を、あすかは夢想した。次第にシナリオを批評するまなざしは力を失っていき、あすかの焦点は特定のキャラクターのみに結ばれるようになった。

 休みなく全編を観終えると、もう午後四時を回っていた。一輝が言葉通りに早く帰ってくるなら、七時過ぎには玄関のドアが開く。あすかは夕食のための米を研ぐと、洗濯物を取り込んだ。九月の夕刻まで出されていた布団は温かった。まだ夕焼けの色が混ざっていない太陽が、テレビを見続けていた眼を刺した。ベッドを整える間、あすかの視野には太陽の残像がちらついた。時々その朧な緑の点を喰い破って、十二回とも飛ばさずに観たエンディングの映像が浮かび上がった。映像の欠片が脳に食い込んで、身動きが緩慢になっているのを自覚しながら、あすかはのろのろと料理を作った。

 

 あすかの電車に乗っている時間は、俄かに充実した。観終えたばかりのアニメについて調べていると、電車は職場の駅や最寄り駅まで、あっという間に進んだ。作品そのものの情報を探していたのは最初だけで、あとはもっぱら二次創作を探すようになった。十年以上慣れ親しんでいる手管に抜かりはなく、あすかは自分の眼に好ましいファンアートを易々と探し出すことができた。

 ひとつの作品に耽溺したときの常だが、世の中には自分などたくさんいるものだと思い知らされる。あるイラストは、婉曲的にしたからこそ妙味が出ていたはずの演出を、直截に、しかし雰囲気を損なわずに語り直していた。ある小説は、ついに作中で現れなかったビジョンを、作品の色合いを見事に踏襲したまま幻視させた。そのどれをも、あすかは既に知っていた。しかし目にしたことがなかった。

 仕事から帰る途中の乗換駅に、電車遅延のアナウンスが流れた。この時間に電車が遅れては、いくつも料理を作る暇はない。夕食は冷凍していたものに頼ろうと決めると、ホームのベンチに腰かけて、スマートフォンのブラウザを起動した。琴線に触れる小説の書き手を見つけ、中でも期待できそうな作品を開き、タブを固定していたのだ。劇中にはないエピソードをでっち上げた文章だったが、そんなことには構わず、あすかは夢中になって読んだ。

 まとまった予算、複数人の画才、専門的なソフトウェア、役者、宣伝広告……。様々な要素が絡まり合った週間アニメという商品の印象が、個人が趣味で書いただけの散文の印象と交わり、不可分のものに変質していく。その時、あすかの判断は、経済や法律の知識を働かせるのを忘れる。アニメが自分の耳目に届くまでの間に、金と人が動いたのが分からなくなったわけではない。しかしあすかは、アニメからも、今や二次創作の作品群からさえも、彼女にとっての無駄を削ぎ落とす作業を始めていた。もはやアニメがどれだけの収益を挙げたか、何人のファンが付いたかなど、彼女の興味をそそらない。彼女は人の造った彫刻へと鑿を打ち込み始める。そこに彼女のための財宝が埋め込まれているのを知っているからだ。あすかは主人公の少年と、彼と対立する天才肌の少年との関係に惹かれ、二人の会話や軋轢を拡大解釈した小説やイラスト、漫画の類を探した。電車を待つ間に読み始めたのもそうした内容の小説で、前書きを読み、性的な表現を含む作品だと承知していた。だからこそ読み始めたのだ。

 ある程度の数のファンアートを目にしてくると、だんだん性的な要素を含むものを見たくなってくる。あすかにとって、それは自然な傾斜だった――喩えではなく、実際それは階段なのだ。幅も勾配も不均一な下り階段。エロを欲しがってそれを降りれば、人は端的に堕落し、それに見合った背徳的快楽を得る。あすかはエロを求めるのを健全だとする輩を軽蔑していた。誰に迷惑をかける行為でもないが、しかし魂が堕落する。それを承知しないで、欲求の自然さに甘んじて「健全」などと言い張るのは、彼女にとって屁理屈以外の何物でもなかった。恋しい人と睦み合いたいと思うならまだしも、虚構の人物が愛欲に耽る様を好んで探すことなど、どうして健全だと呼べるのか。

 しかし、これは堕落だと悟りながら、あすかは階段を降りる足を止めない。極端な表現に鼻面を近づけて、スタントマンに頼らない俳優のような美学を感じた時もあったが、いい歳になった今、架空の人物を愛でることへの後ろめたさは風化し切って、美学を見出す条件は失われていた。代わりに残ったのは、愛を寄せることの独善的な心地よさだけだった。アングラという言葉の印象の中に、しばしばエログロが内包されうるのを、あすかは面白く思っていた。彼女が男同士のセックス描写に出くわしたのは、二次創作を好む自分を「地下に潜った」と表現した頃だった。

 小説は終盤に差し掛かっていた。エピソードを捏造し、本編にあるいくつかのシーンの意味を巧みに塗り替えて進んだ物語の後半で、あまりにも自然に挿まれた濡れ場。あすかは描かれている性行為としての現実味、二次創作としての無理のなさを分析した。小説全体に高く付けていた評価が、少年たちに向けた愛に吸い上げられ、満足感をふくらませる。頭に温かい血が巡り、腹の中に幸福の腫瘍が殖えてゆく。小説は、アニメの悲劇的な展開を、暗に語りながら締めくくられた。最後の一文を読み終えると、その小説とアニメとを貫く串が、あすかの中で走った。

 あすかは携帯から視線を上げて、ホームから見える限りの遠くを望んだ。空の暮れようは秋らしく変わっている。ひと月前の今の時間よりも遙かに暗く、突き放されたような寂しさが胸を充たす一方、大気には肌に纏いつく湿気と、体温を下げない温みが宿っていた。夕陽はタワーマンションに隠れていたが、陽が沈み切る前の光のひとしずくが、建物の腹を赤く濡らしていた。

 

「あすかならあのカプでハマると思ったの。ナイーブだけど芯はある受と、野心だだ漏れの天才攻なんて絶対好きでしょ」

 同僚の陰の見当たらないインドカレーの店で料理を待つ間、牛尾はそこそこ遠慮のない声で話した。他に客はいないし、店員は日本語がおぼつかない。普段は大っぴらにしない趣味を、声を絞らずにできた。

 牛尾はあすかと同期入社で、友達としても付き合いの深い女だった。あすかは人づきあいが得意でなかったが、親しい人間とは密な関係を作った。牛尾はそうした数少ない友人の一人だ。二人が仲良くなったのは、フィクションを同じように楽しむせいもあった。

「うん、あれはハマるよ、一択だったよ。牛ちゃんが私に推した理由、すぐ分かった」

「でしょう。最大手ではないにしても熱が強いよね。私は追いかけるほどハマらないけど、魅力は理解できるもん」

 休みの日に一気に観たあのアニメは、牛尾から強く勧められた作品だった。部署の違う牛尾との食事では、よく仕事の話が出るものだが、今日は当然のごとくその作品に話題が向いた。

「それでさあ、あすか、この人知ってる? あんまりフォロワーとか多くない人だけど」

 牛尾はスマートフォンで、イラスト投稿サイトのページを見せてくれた。あすかはすぐに閲覧回数やブックマークされた数を認め、売れっ子と呼ぶべきほどファンを付けた絵描きの作ではないことを見抜いた。SNS上の拡散の中で、作品を観たことがあるわけでもない。しかしイラストそのものは、掛け値なしにすばらしいものであった。あすかが入れ込んでいるキャラクター二人の摩擦する価値観を、向かい合わせの構図や微妙な表情の描き込みによって、一枚の絵にして端的に表している。アナログで描いた絵をスキャンしたものであるのも、あすかの心をつかんだ。物語の舞台がトーチカであるから、原作のアニメは僅かな色彩で画面を作っていたが、そのイラストは作品の風合いを保ちながら、豊かに色を挿している。光の加減で黒の深みがやわらぎ、茶色が赤々と輝くのを描いている。色鉛筆による丁寧な彩色、光源の精妙な配置。その中で、人物の線は敢えて荒く走らせてある。キャラクターの若々しさをより鮮やかにする、造形美だけを追い求めた着物を着せているようだ。

「ねえ、この人すごいね!」

「でしょう!」

 二人の声が十歳分若返った。牛尾以外の同僚は、今のあすかの声を聞いたことがない。

「こういう上手い人が同カプって、もう本当……ありがたいよね」

「この人のツイッターのアカ、後でLINEしとくね。多分、私らより年上の人で、リバとか描かない人だから」

「ありがとう、本当ありがとう」

 ちょうど注文した料理がやってきた。二人前のカレーがテーブルに並ぶと、店内にただようスパイスの香りが素早く遠のいていき、目の前で熱を放つカレーのまばゆい香りだけが鼻に届く。牛尾の皿からはナンの暖かな匂いも立ちのぼっていたが、ライスを頼んでいたあすかの目の前には、カレーの香りが素直に広がる。二人でよく使っている店だったので、スパイスの効能よりも、味への期待で食欲が湧いた。会話のきりが良かったので、二人は揃って、いただきますと唱えた。あすかの頼んだサグパニールは期待どおり柔らかに甘く、小気味よく辛かった。咀嚼の合間にも、会話は途切れずに続いた。

「牛ちゃん、何でこの人知ったの? 他でも何か描いてる人?」

「ああ、何ていうか……前から知ってる人なんだよね」

 牛尾は仕事でもプライベートでも歯切れよく喋ったが、彼女にとって明らかな躊躇がある時には、分かりやすく口調を淀ませる。あすかは何年も付き合う中で、手を伸ばして良い躊躇と、触れては友人を傷つける躊躇とを見分けられるようになっていた。

「え、何、知り合いとか?」

「知り……うーんと」

 牛尾はさして汚れていない口元をわざわざ拭うと、少しはにかんだ。

「すっごい昔から知ってる人なの。ちょっと前に気が向いて検索いろいろかけたら、すぐヒットして」

「昔って?」

「……中学ぐらい」

「えー、すごい! 大ファンなんじゃん」

「向こうも頻繁に更新してた時期だったから、毎日サイト通ってたの。私らが高校生の頃に、忙しくて更新できないからってサイト閉めちゃって」

「ああ、あったよね、そういうの。律儀って言うのかな、残してくれればいいのにってファンは思うけどね」

「ねえ。だから今も描いてるんだーって嬉しくってさ」

 それから二人は、話題の絵描きが当時何の漫画の二次創作をしていたか、という話でひとしきり盛り上がった。今まで知らなかったお互いの趣味の変遷が期せずして明らかになり、二人の少女めいた嬌声はいよいよ華やいだ。一時間の昼休みでは語り尽くせない思い出や質問の数々が、彼女たちの間にその影を広げた。あすかは牛尾との間で開陳するべきものが、未だ数多くあるのを喜んだ。

「今じゃPixivもツイッターもあるから、自分でホームページ組む人なんてなかなかいないじゃない。管理人がいて、常連が付いて初めて出来る閉鎖的な感じ、今味わったら楽しいんだろうな」

 牛尾はナンを一口大にちぎりながら、寂しそうに言った。あすかも同じ郷愁を感じ、うん、と同意しながらサラダを口に運んだ。そして柔らかいサニーレタスを噛みしだいた瞬間、嘘が通用したときに似た焦りを感じた。

「あの頃サイトやってた人たち、プロにはなってなくても、まだ何か描いてたりするのかなあ」

 食事を進めるのに話を切ろうと、ナンを口に含む前に、事もなげに呟いただけの言葉。牛尾にとってはそれだけの言葉が、あすかを刺した。口の中の酸っぱくて薄い葉っぱが、膏薬のように歯にまとわりついた。あすかは相槌を打てず、烏賊のような目をしたままレタスを噛んだ。

 

 あすかは中堅どころの文具メーカーに勤めている。主な仕事はデータのまとめや資料の作成だ。勉強熱心だった学生時代から、睡眠時間と、文書作成と表計算のソフトを立ち上げたモニターの前にいる時間が、同じように長い日々を過ごしている。客先に出向くことは稀で、ほとんどの時間をオフィスで、決まった顔と過ごす。就職して以来、異動はしていない。

 そんなあすかにとって、去年の結婚は、初めての体験にあふれた一大事だった。

 大学時代に出会った一輝と、卒業してから付き合いを始めて三年目。二人並んで踏み止まっていた線を何となく跨ぐように結婚を決め、親への挨拶や式の準備の煩わしさまで幸せと間違えた、充実した季節だった。

 ずっと実家で暮らしていたあすかには、一輝と始めた二人の生活そのものが新鮮であったが、仕事をしながら一年も過ごせば、部屋の至るところに自分たちの手垢がなじんだ。男と暮らすのは未だに少し面映ゆいが、一輝と心を配り合って過ごす日々は、夢に描いたよりも少しだけ快適だった。一輝はケーブルテレビの運営会社で働いている。機器の取り付けの業務も行なう関係で、暦通りに働くあすかと休みが重ならないことが多い。外出やスポーツを好む一輝に気兼ねなく家に閉じこもり、結婚する前と変わりのない趣味の時間に浸れることに、あすかは安らぎを感じている。

 恐らく、一輝はあすかの趣味の仔細を知らない。

 蔵書のほとんどは実家に置いてあるし、最近は電子書籍の端末を使っているから、あすかの読んだ本は一輝の眼に映らない。観たそばから消すので、録画したアニメも然りだ。何より、一輝はフィクションに対して、興味と知識が乏しかった。二人は同じゼミに入って親しくなった。彼女がサブカルチャーに明るいことぐらいは、友人から聞くなりして、一輝も承知しているだろう。しかし、彼女の知識がどれだけ広範で、はまり込んだ時の彼女の没入がどれだけ深く、嗜好がどれだけニッチであるのか。そうした見当は、一輝には付けられない。彼はあすかの実家で、棚に収まらないほどの蔵書が、物置に仕舞われた後のあすかの部屋しか見ていないのだから。

 あすかがこのことを同好の士に話す時、大抵は羨ましがられ、遠慮のない者からは責められた。牛尾からも、くだけた調子でこう言われたことがある。

「うちらの趣味なら、細かく知られてない方が楽でしょ。あすかは恵まれすぎ」

 人から趣味をばかにされることは悲しく、趣味だけで人格を評価されるのは腹立たしい。恋人から――今や夫になった人から、そうした仕打ちを受けないことは確かに恵まれていると言えた。あすかは時々思う。一輝と一緒になれた幸せや、自分の人生が軌道に乗った幸せよりも、好きな人が好きなものにけちをつけなかった幸せの方が、よほど大きいのかもしれないと。

 その幸せを噛みしめる時、切なさまでが胸に萌した。あすかは少年同士の恋愛を好む屈折を自覚しているが、嗜好を断つことはできなかった。その嗜好は病巣ではなく臓器だったからだ。一輝がその存在を知らないのは気楽だったし、打ち明けずにいた咎で離婚になるような秘密でもない。しかし、妻の肺が空気を溜めて、夫の心臓が血を巡らせていることを知らない夫婦はいない。

 一輝への後ろめたさそのものは、単なる痛痒として、時にあすかの乳房の裏側をくすぐるだけだった。だが、それは彼女が忘れたふりをしてきた記憶に結晶して、罪悪感に似た錘へと変わりつつあった。

 あすかは高校受験が終わってすぐにホームページを立ち上げて、自分が書いた小説を公開していた。奇跡的に運営を続けている無料サーバーに守られて、今もサイトは現存している。掌編も長編も載せていたが、どの作品でも、男性同士が恋に落ちる様を描いている。サイトを立ち上げたのは高校生の頃で、当時入れ込んでいた漫画やアニメの二次創作も、いくつか載せていた。

 完結させた長編が二作ある。一作はあすかにサイトを持とうと思い立たせた、中学生の時に書いた小説。小さい頃に大好きだった少女漫画の梗概を写し取り、少年少女の恋愛を少年同士のそれに換え、換骨奪胎を悟られぬよう変奏したものだ。もう一作は、高一の夏休みを費やして大部分を書き上げた小説。管理人同士での交流ができ、リンクが増え出していたせいもあり、読者の目を意識して書いた初めての長い小説だった。これを完結させて以後、サイトへのアクセスは目に見えて増えた。

 そしてもう一本、完結していない長編を載せている。二本の長編で得たものを全て使って、最高傑作を書くと謳ったものだった。二部構成になっていて、一部で少年同士が恋に落ちるまでを、二部ではその後の二人を描いている。筆は二部の途中で止まったままだった。

 

 人死にを出すほどの豪雨で夏が一度に潅ぎ流されて、明確に秋が始まっていた。十月の優しい乾燥は、洗濯物の清潔な乾きと、夫の肌がすべらかで熱いことの心地よさ、ためらいなくホットと頼んだ時のコーヒーの旨味をあすかにもたらした。

 仕事から帰ってきて、最寄り駅のホームに降り立つと、あすかは車内と外気との温度差を感じた。寒さではなく、「汗などかかなくてもよい」と激しい生理を抑えてくれる愛撫として、風が彼女を舐めた。あすかは気持ちよく改札を抜けた。

 あすかが思い描いていたより、埼玉の東南部では駅前の開発が進んでいる所が多かった。コンビニやドラッグストア、飲食店などの有名チェーンが軒を連ねる様だけ切り取れば、快速が停まる都内の私鉄駅の光景にも見紛う。高速バスが来るわけでもないのに、大きなロータリーを併設している駅が多いのが、ずっと東京で暮らしてきたあすかには新鮮だった。あすかたちの最寄り駅もロータリーが大きく、停留所も四つある。家と駅はほとんど歩いて行き来するし、県内にある一輝の実家へは電車で行く。家の近くと駅とを繋ぐバスは把握しているが、他の停留所のバスに乗るとどんな町へ行けるのか、彼女はよく知らなかった。

 停留所を眺めていると胸がうずうずとしてきて、あすかは初めてロータリーをぐるりと歩き、使ったことのない路線の停留所の名前を読んだ。どこかで苗字として聞いたような地名、こことは別の区の役所、読み方がさっぱり分からない地名、学校の名前、一輝と車で何度か行ったイオン。じっと佇んで文字に目を走らせていると、薄いコートに宵闇が染みてきて、体だけでなく頭まで冷やし、ぼんやりした好奇心が道草を食わせていることを思い知らせた。家路を辿り始めると、体はすぐに温まった。

 駅から離れると、町医者や古い家が目につき始める。今の家に越してきてから病院の世話になったことがないが、駅前に新しいクリニックがあるのは知っている。看板の朽ちかけたここらの医者にはかかるまい。そうした実際的な判断とは別に、あすかはこの古ぼけた街並みを好きになり始めていた。夜に歩けば、夕餉の匂いや風呂場の温気を漂わせ、人の集まりを伝えてくるこの街並みを。誰を知っているわけでもない、他人に優しくされた覚えも特にない。それでもただ近さゆえに、助けを求めて叫んだら、ここでは誰かが窓から顔を出してくれそうな気がした。あすかは涼しい夜気の中を歩くのが楽しくなり、入ったことのない小径に足を踏み入れた。遠回りになるだろうが、行き止まりにぶち当たることもないだろう。何となく、初めて見る光景を眼に入れたかった。

 今まで玄関の側しか見たことのなかった家の背面に回り込んで、あすかの気持ちは緩やかに上向いた。今まで趣味の話をしたことのなかった知り合いが、自分と同じ本が好きだと知った時のような気持ち。その家は決して新しくない。玄関の扉もよくありがちな、野暮ったい擦りガラスを嵌めたものだった。しかし家屋と塀の間隔から、庭が案外広く取られていること、恐らく風呂場であろう所からH型の換気口が突き出していることを知り、まさに昭和の漫画に出てくる住宅のようだと、途端に愛らしく思えた。庭に柿の木が立っていて、枝ぶりはあすかの歩く道にまで伸びている。店先に並んでいそうな実が、葉の間から近くの街灯の光を吸って、橙色だと何とか分かるほどの鈍い照りを見せていた。

 ふと視線をアスファルトに下ろした。まだ十月だというのに、早生りか病気を持ったか、一つの実が落ちて潰れている。柿は一顆の堅い果実だったことを忘れ、初めから泥としてそこにあったかのように、道端に坐っていた。腐敗が始まっているのか、果肉は黒ずんで見える。しかし中心にもっとはっきりと黒い種が覗いているので、柿らしい色が際立って、焦げ茶に近い赤にも見えた。

 アスファルトに落ちた種と、後は雨に流れるか腐るだけの糖分が、勇んで書き始めた小説を放り出した自分のように思えた――いや、私はそう思いたがっているのだという願望までがはっきりと閃いた。近頃のあすかの思考は、盛んに小説を書いていた頃の癖を取り戻しつつあった。ちょっとした気付きに際して比喩が産まれかけ、人の振る舞いや言動の印象をまとめる時に、物語然とした美しい結論を出そうとした。少女の頃、学校でうまく立ち回れない自分を切り盛りしていくために、わざと世界を物語だと間違えていた頃のように。

 落ちた果実に自分を重ねた短絡さに鼻白みつつも、あすかは自分が腐敗していく感覚から逃れられずにいた。どこにも根を張れない種、どこにも浸透できない栄養、ルーティンワークの中で滅失していく小説。それを看過する自分。

 あすかの心は甘やかに緊張すると、思いつきの姿をした必然的決断が湧かしうる、あの不自然な活力で身体を満たした。あすかは急ぎ足になって緊張を緩ませるのを恐れ、あえてゆっくりと足を運び、道を進んだ。初めに考えた通り、少しの迂回をしただけで、慣れた道に出ることができた。

 家に帰ると、あすかはまずノートパソコンの電源を点けた。普段ならすぐに着替えて、夕食の準備にとりかかるところだ。パソコンが立ち上がるまでの間に着替えを済ませ、すぐに検索エンジンを開き、淀みないタッチで文字を打った。

 そのサイトがトップに表示されることは確信できていた。誰の耳にも馴染みがないほど素っ頓狂な、しかし記憶に残るほどには意味が通じるようにした言葉の連なりを、何カ月もかけて考えたのだから。あすかは数年ぶりに、自分のサイトを開いた。

 

 喉を内側から掻くような羞恥の熱が、あすかの体をめちゃくちゃにした。モニターから過去が吹きつけてくる。勢いのあまり息がつけない。烈風は塵のごとく小さい刃を孕んでいて、あすかの顔と、口から入り込んで胃と肺までを刺した。これは何だ。こんなものを私はかっこいいとかきれいとか思ってデザインしていたのか。当時の自分を張り倒してやりたい、そして抱きしめて二人で泣きたい。間違っているよ、間違っていたんだよと吠えながら泣きじゃくりたい。高校の友達のマンションから撮らせてもらった、東京の下町の写真を加工した背景画像。大写しにした空の青色を思い切り強調していて、わざと解像度を粗くしているので、建物がラフな線描のようになっている。そうして背景は自作しているが、リンクパーツはフリーの素材を使っている。当時は、この背景ならこの素材で、色のバランスは完璧だと自負していた。そんなことはない。浮いている。色合いの問題ではない、がりがりしたビルの描線に、ゴシックベースの楷書っぽい字体が全く合っていない。

 あすかを痛めつけるのは、デザインの不出来だけではない。デザインに関してだけ言えば、ブログのようなフォーマットがないところから作っているせいだという言い訳も、今となってはできた。最も激しく胸を掻き乱したのは、彼女が初めにサイトに載せた、漫画から話の筋を盗んだ小説だった。小説の元にしたのはメジャー誌の人気漫画で、少女向けのアニメとしても人気を博したものだ。動物に変身する魔法とか、ギリシャ神話をモチーフにした人物とかが登場するストーリーで、小学生の頃のあすかは、友達と交換する手紙の端に、その作品のキャラクターを描いたものだった。

 確かに、筋を写したことはおいそれと分からないほど、アレンジは加えてある。だからこそ、節々が軋みを上げている。

 元の話では少女が切り回していた事柄を、少年に任せたせいで無理が生じた。当時のあすかには、その面倒が見切れなかった。中学生になった自分の趣味を優先し過ぎているのが原因のひとつだ。得たばかりの知識をねじ込もうとする余り、元の漫画が平易に語ったからこそ生まれた美点を、ことごとく写し損ねている。むしろ負荷を負荷として抱えたまま話を結んでいれば、稚拙ゆえの可愛げを帯びていたかもしれない。あすか自身、同じジャンルの小説を書く人の中で、半出来だからこそ次の作品を期待させる書き手を何人も見てきた。しかしあすかは元の作品の魅力が蘇るのを恐れて、表現を煮詰めるのを止めている。盗んだものを使いこなせず、盗んだことだけごまかそうとしたのだ。結果として、修繕に力を割いた分だけ作品は面白みを得そびれて、彼女にははっきりと分かるひずみだけが残った。話の内容は大まかに覚えていたが、どうしても精読できない。結局このサイトの存在は、ネットを介して出会った友人しか知らない。この小説を家族や同僚に見られようものなら、俗世との関わりを断つほか生きる術がなくなる。牛尾にだって明かせはしない。当時の自分は、よくこんな小説で「アクセスが少ない」と嘆いていられたものだ。

 二作目の長編は、当時読んでいた漫画と同じ常識でストーリーを構築したもので、荒唐無稽に過ぎる話ではあったが、何とか読める代物だった。身内には決して見せられないが、一作目とは質が違う。駄作とさえ呼びかたい一作目も、これの肥やしになったと思えば、書いた意義があったと言える。記憶喪失とか賞金首とかモグリの医者といった人物が続々と出てくる展開には鳥肌が立ったが、作品はひとつのリアリティをぎりぎり維持したまま完結している。何より文章が、人物とか展開を支えていた。この小説のための言葉を捻り出そうという格闘の跡があり、書き手がキャラを愛している事実が、文章の端々に染み渡っていた。

「頑張ったんだな」

 思わずそう独りごちていた。他の誰でもない、かつての自分に向けた、届かないと分かっている呟きだった。仕上がりは、私にしてはよくやったという程度の出来だ。数多あるアマチュア小説と比して、上質なものではない。もしかしたらここの掲示板で――書き込みが途絶えたので、掲示板は現存していなかったが――讃辞を述べてくれた人たちは、私の苦心を察して褒めてくれただけかもしれない。それでも私は私を讃える。私は努力し、行きつ戻りつし、私にしか判じ得ない終わりを見つけ出し、この話を結末まで綴ったのだから。

 だからこそ、未完の三作目が、あすかの眼を捉えて離さなかった。最後に更新した回へのリンクに、赤字で「NEW」と添えてある。そこで話が終わっていないことは、誰よりもあすかがよく知っている。一作目、二作目と斜め読みしていたが、肝心の三作目は、一言一句取りこぼさぬよう読まねばならない。服の中の空気が膨らむ恥の熱さで頭がのぼせたまま、あすかは一話目のリンクを開いた。

 漫画から梗概を盗んだ一作目、漫画を参考にした二作目とも、筋書きは現実離れしている。しかして三作目は、どこにでもあるような高校の、どこにでもいるような少年たちの物語だった。別の言い方をすれば、初めの二作を拙劣にしているのは、自分の嗜好が世界の原理原則とどこまで近しく、どこまでかけ離れているかという認識の不足だった。三作目はその克服を念じている作品だと言えた。

 

 子供の頃は身体が小さくて気も弱く、引っ込み思案だった少年・優斗(ゆうと)。中学に通ううちに背が平均以上にまで伸び、次第に劣等感を軽減していった優斗は、進学した高校で、私立中学に進んでいた小学生時代の親友・樹(たつる)と再会する。気弱だった優斗は、勉強も運動もできて容姿も良い人気者の樹に、よく世話を焼いてもらっていた。優斗は憧れの存在だった樹との再会を喜ぶが、樹はかつての快活な雰囲気を潜め、優斗に対してもつっけんどんな口ばかり利く。樹は優斗と別れて進んだ中学で、勉強でも運動でも上位に入れずにいるうちに周囲と衝突し、エスカレーター式の進学を蹴っていた。そうした中で、樹は自分を卑下し、積極的に人と関わることも避けるようになっていた。優斗は何かにつけて樹に話しかけ、もう一度親しくなろうとする。樹は初めのうち優斗を邪険に扱うが、自分と同じような背丈になり、しかし変わらず自分を慕う優斗に態度を軟化させ始める。交わす言葉が増えるにつれ、樹の知性や閃きは失われたのではなく隠れているだけだと気付き、優斗は昔のような劣等感を再燃させ始める。一方で樹は、当時何かと優斗の世話を焼いていたのは彼が頼りなかったせいではない、優斗への恋心がそうさせていたということを悟る。優斗はかつてのような卑屈な言葉を吐くことが増え、樹は突然自覚した恋心によって狼狽する。段々と関係がぎくしゃくしてゆく二人。しかし、その摩擦は、やがて互いの感情を爆発させるエネルギーとなり、樹は自分の好意をまっすぐに伝える。優斗は、一緒にいると駄目だった自分を思い出すと告白しつつも、「それでもタッちゃんと一緒にいたい」と答え、樹の気持ちを戸惑いながら受け入れる。

 

 ここまでが一部の筋書きだった。公開していた日記で「集大成にする」と宣言していただけあって、使える道具を全部使って書いている。技巧に走ったせいで冗長なくだりもあるが、全体を駄目にする不協和音にはなっていない。物語の論理におかしなねじれがないために、推敲の記憶が鮮やかによみがえる。書くにつれて読む快楽も増していたあの頃。集大成と呼べる小説を物するには、人間を書き出さなければならないと覚悟した頃。一作目は言わずもがな、二作目も漫画から借りてきた人間を動かしていたのと同じだったが、この小説は違った。あすかが一から組み上げて、物語の中で自律を見た人間が、文章の中に存在している。彼らはあすかと同じように、物を食べ、歌をうたい、涙を流すことができる。何よりあすかが驚いたのは、主人公たちが自分の眼で世界を見ていながら、その光景を物語る当時のあすかが、自分の眼に映ったものを語ろうとしていないことだ。あすかがこの小説を書き始めたのは高校生の時だった。自分と同じ高校生を描いていながら、自分が通った高校の雰囲気が全く移っていないし、特別な美化をもって学校を描いているわけでもない。どこかにいる誰かのことを語るように、キャラクターを描いていた。自分が、或る視点をここまで創造できていたとは、思いもしなかった。

 少年同士が好き合うことを、さも当然のように書いていることは間違いない。一作目や二作目のように、美系の男は皆ゲイ、という風には書いていない。実際主人公の二人は、男同士で恋をすることに戸惑っている。しかし、作者がジャンルに体を預けて書いていることが明らかだった。人間を生み出すと決めていながら、彼らが生きる世界を虚構の原則に――しかもかなり局所的な作品群の原則に基づいて構築している。しかし、あすかは当時も今も「これでよい」と思った。消費するだけならそんな意識は必要ないが、創作する側に立とうとするとき多少の所属意識が生まれるのが、少年愛を含むクィアー・ラブの常であった。契約そのものではない、属すると決めて捺印をした自覚こそが書き手を書き手たらしめ、判を捺した覚えのない書き手の作には、借り物の武器で戦うぎこちなさが必ず宿った。

 公開している個所までを読み終えると、あすかはパソコンの電源を落とし、居間で水を飲んだ。体には不思議な疲れが溜まっていた。水は心地よく喉を滑り、干からびた土に染みていくように吸収された。

 仕事で疲れているところにまたディスプレイを見続けて、目が疲れ切っている。コップを持って冷えた指で目頭を揉んでいると、一輝が帰ってきた。居間に入ってきた一輝と顔を合わせて、あすかは道すがら考えてきていた台詞を言った。

「ごめん、今帰ってきたばっかりで、ご飯まだなの」

 あすかは夫に嘘を吐いた。急いで小説を読ませるために嘘を用意させた自分自身に、あすかは気味の悪さと、少しの頼もしさを感じていた。

 

 土曜の昼前の上り電車は空いていた。車窓から見える風景に目を凝らしていると、今の家から生まれ育った町へのあわいを走っていることがよく分かる。

 あすかの実家は、今の家の最寄り駅から都内に入るまで電車に乗り、地下鉄に乗り換えてふた駅の所にある。一輝と二人の時には、今の家の近くにある店の菓子とか、一輝の実家から貰った果物を手土産にするが、今日はあすかが久しぶりに食べたくなったこともあり、乗換駅にある有名な和菓子屋で土産を買って、そこから歩いて帰ることにした。

 鍵を開け、ただいまと言いながら入った玄関のたたきに、父親の靴があったのが意外だった。母からは、父は土曜の昼間、出かけていることが多いと聞いていた。居間に進むと、台所に立つ母と、ソファに座ってテレビを観る父から、お帰りと声をかけられた。

「お父さんもいたんだ。どら焼き買ってきたの、食べるでしょ」

「うん」

 父はあすかの方を見やって返事をすると、すぐに視線をテレビに戻した。あすかは父の態度を素気なく思ったが、手を洗っているところに近付いてきた母から「お父さん面白いでしょ、あれ照れてるのよ」と言われ、自分の結婚式で父が涙した時の気持ちを思い出した。あすかには兄がいる。父と兄は時々遠慮のない勢いで会話をしたが、あすかは父と強くぶつかり合った覚えがない。友達めいた関係にある母には、父に執着されている気がしないと明かしたこともある。楽ではあったが、子どもとしてはつまらなくも、虚しくもあった。

「お父さんはあすかが可愛くて仕方ないのよ」

 幼いあすかには、母の言葉はごまかしにしか聞こえなかったし、それが本当かもしれないと思えるようになっても、娘への愛情の示し方を知らない父への侮りは残った。初めて見た父の涙には、そうしたしこりを少しほぐす力があった。

 久しぶりに母の料理を家族と食べながら、あすかはありふれた雑談を楽しんだ。一輝とはうまくやっているのか、食事はちゃんとしているのか、二人とも仕事は忙しいのか。あすかと母が作る会話の流れに、父も珍しく口を挟んだ。

 実家を訪れた目的は、両親の顔を見ることではなかった。食事を終えて母と洗い物を片付けると、土産の菓子に手を付ける前に、あすかは家を出た時のままになっている自分の部屋に入った。

 椅子の上に立って開けた天袋には、中身の詰まった紙袋が所狭しと並んでいる。もう何年も改めたことのない袋だが、百貨店の袋には卒業アルバムの類を無造作に突っ込み、服屋の袋には卒論の資料を詰め込んだことを、はっきりと覚えている。目当ての袋は、わざと奥まった所に入れていた。椅子の上で爪先を立て、天袋に潜り込むようにして腕を伸ばさないと引き出せないほど深く押し込んだその袋は、紙類をぎっしりと詰め込んで重い。少し力を加えると、中の物が崩れて形を変えた。あすかの細い指では力を伝えるような掴み方がなかなかできず、両手が届くまで引き寄せるのにさえ時間がかかった。ようやく袋を引きずり出し、椅子から降りる頃には、少し汗をかいていた。

 袋の口を開くと、暗所の中で時間をかけて埃を被った紙特有の、清潔な水と土の交わった泥のようなにおいがした。

 袋に入っていたのは、小説のために書き付けた草稿や覚書の束であった。授業中に思いついたアイディアや、既に書き上げていた部分に必要な修正案、そのまま作品に組み込めるかもしれないパッセージ。授業で使っていたものが創作ノートと化した帳面もあれば、ルーズリーフもある。指が埃で汚れていくのを感じながら、あすかは紙をめくり、未完の小説のために書いたものを選り分けていく。

 あの小説をもう一度書いてみようかと思うことは、時々あった。サイトを放置し始めた頃の、自分の子供を手放す準備をしているような罪悪感が、これまでに何度も胸をよぎっていた。衝動的にサイトの小説を読み直したあの夜から、あすかは携帯や職場のパソコンからサイトを見返すようになった。反復は気持ちを鍛え、書こうかという逡巡は、書きたいという欲に姿を変えた。そして今あすかの胸にあるのは、書かねばならないという決意だった。それを強迫観念と呼べないほど彼女は書くことを愛していたし、初めのためらいさえ、決意を隠していたヴェールに過ぎないと思うようになった。樹と優斗という二人の少年が、青春期と同じ鮮やかさであすかの頭の中に描き出され、彼女の言葉に刷り出されるのを今かと待っていた。

 なぜ書かねばならないのか。得るものがあるのか、幸せになれるかなど関係なかった。ただ、書いてこそ私ではないかと思えるからだった。

 

10

 あすかは一人で家にいる時間のほとんどをパソコンに向かって費やし、実家から持ち出してきた走り書きを清書すると同時に、筋書きを練るようになった。テレビの前で過ごすことは減り、家事はとにかく時間がかからぬよう済ませた。

 途中で筆を止めたとはいえ、瞼の裏を駆けてゆくビジョンを追って青春を過ごした小説だ。手がかりを用意すれば、今のあすかからも言葉は湧いて出た。小説の骨子は、常に彼女の脳内で具現化を待っていた。

 それなのに、あすかは小説を書くのをやめていた。理由はいくつかあった。密度ある言葉で創作を続けることに疲れたから。大学に進んで多忙になったから。ある程度の自信があったがために、讃辞を述べてくれる人の期待を裏切るのが恐くなったから。そして、二十歳を過ぎて少年愛の小説を書いていることに、後ろめたさを感じることが増えたから。

 結婚してなお、同じジャンルの漫画やアニメを観続けている。それだけならまだしも、そうしたジャンルの外にある男たちすら――時には性別が女性でないものなら何でも、意図してカップルと錯覚できる。好きなものは好きなのだから、書き続けるのに年齢が何だ。そう思うこともできたのかもしれない。しかし、あすかは書き手たらんと意識した。契約の捺印の記憶があった。血判を捺したような忘れがたい記憶だ。親指の皮を切った厳粛な感覚は、後ろめたさを感じるあすかを罵った。自分自身に罵られるにつれ、筆を手放せば楽になれると思い始めた。事実、もう書かなくなるかもしれないと実感し始めた就職活動の時期から、あすかは奇妙な気楽さを感じ続けていた。一輝と暮らし始めた今、やはり書こうと思い立ったのは、書く力が死の淵にあるのを悟ったせいかもしれなかった。一輝と気遣い合っていけば、概ねの障害を乗り越えていけるだろう。許しがたいほど大きな幻滅を、一輝が私に供することは恐らくないだろう。そうしてずっと生きていけると思えるからこそ、書かないまま死ぬ自分にも現実味があった。

 パソコンは二人で暮らし出してから買い換えたものだった。一輝はちょっとした調べ物をする以外に、そのマシンを使わない。デスクトップにショートカットが増えていなければ、諸々のファイルが見つかることはほぼ有り得ない。走り書きを清書したもの、筋書きをざっと書き通したもの。そして、サイトに載せている分を全て貼り付けた文書ファイル。その末尾には、あすかが再び字を連ねるのを待っている空白が広がっている。恋人同士になった樹と優斗の二人が、いくつかのきっかけによって気持ちを揺らすのを待っている。そして《前半部の終わり》ではない、本当の結末を迎えるのを待っている。

 続きを書き始めるのには、もう少し準備が必要だった。ブランクをものともせず書くためにも、点検としての精読が足りていない。書き始めてから長い時が経っている以上、原稿と向かい合う時の気持ちさえ、意識して作り直さなければならない。少なくとも、家事と仕事に遣う神経をもっと眠らせなければ、小説然とした言葉を編むことはできないだろう。

 最も大きな問題は、この作品の幕を閉じるのはかつてのあすかであるべきか、それとも一度は筆を投げかけた今のあすかであるべきか、ということだった。見事な小説を書いてみせようという客気に満ちた幼いあすか。幼いからこそ撃ち放つことのできた銃弾のような恋模様。限られた場所でしか満足に光らない、けれどもその範囲のなかでは若々しくも妖しく輝く修辞。それらは今も誰かのアクセスを待ちながら、Web空間の片隅できらめき続けている。しかし、あすかは客気も、幼さも、言葉を扱う時のためらいのなさも失った。もう一度、あの力を取り戻すことはできるのか? 仮に力を取り戻せたとしても、それを揮うのは幼かったあすかではない。当時のような余暇を持たず、自分たちの稼いだ金で夫と暮らす、文章を書くための筋肉と反射を衰えさせた今のあすかだ。

 選択肢は限られている。かつての自分のパスティーシュとして、小説の続きを書くか。今の自分が自然に紡ぎうる言葉を連ねるか――違和感を無視して続きを書くか、それともいっそ全面的な改稿を施すか。

 逡巡は続いているが、永く迷い続けることは絶対に良い結果を生まない。ディテールを凝らすための試行錯誤が作品を磨き上げるのに対し、やるか否かで迷う時や、方針を決められない間の停滞が、その後の創作を情けないものにするのを、あすかはよく知っていた。

 今夜も、もうすぐ一輝が帰ってくる。下ごしらえは済んでいるが、そろそろ夕食の支度を始めなければならない。休日のほとんどを費やしたのに、成果と言えば、ようやく筋書きが一旦の完成を見たという程度で、肝心の原稿は手つかずのままだ。しかし何度も繰り返し読んだために、小説が部屋着のように体に馴染むのを、あすかの肌はようやく感じ始めている。懐かしい眼が小説を読み、懐かしい心が言葉を噛みほぐしている。あすかは初めて自分のことを懐かしく想い始めていた。秋は深まり、もうすぐあすかは温かい飲み物をパソコンの脇に置くようになる。少女の頃、遅くまで小説を書く時そうしていたように。

 

11

「この俳優、見なくなったね」

「マイナーな映画、たくさん出てるみたいよ」

「そうなんだ。今でも活躍してるんだね、そこまでイケメンじゃないけど」

「そう? 格好いい部類に入るんじゃないの?」

「ええ? 美男子ではないんじゃん? やる役もいかついのばっかだし」

「いや、あれがあったじゃん! あの――」

「えっ?」

「――あれ、私、何て言おうとしてたんだっけ?」

「ちょっと、ボケるには早過ぎるよ」

「あれ、ちょっと待って、本当に思い出せない」

「はは、ちょっと、嘘だろ? 何だったの、さっきの勢い?」

 

 今思っても、背筋が寒くなるやり取りだった。通勤電車の中で、あすかは反省を繰り返している。

 一輝と一緒に朝食を摂りながら、民放の情報番組を見ていた時だった。映画のメインキャストが揃ってバラエティ番組に出るという宣伝映像を見て、一輝がひとりの俳優を指差した。大学時代、あすかがミニシアターへ通い詰めていた頃、頭角を現してきていた俳優で、あすかは彼の顔にも芝居にも入れ込んでいた。出演作品もほとんど把握しているのだが、一輝と話す時のいつもの癖が出て、人から聞いたように彼の活躍ぶりを話した。そこまでは普段通りだった。

 一輝の言う通り、強面の役ばかり回ってくる俳優だが、青年漫画を原作にした映画で演じたサイコパスの役が彼の最高の仕事だと、あすかは信じて疑わない。平板な台詞回しと無表情を保ったまま、淡々と人を殺し、同じように自分も死んでいく役だった。原作をそのまま再現した血まみれの彼の姿を、あすかはいつでも鮮やかに思い出すことができる。学生時代、三回も劇場で観た映画だった。二回目・三回目とも、あすか同様原作のファンである友達を連れて行き、コーヒーを飲みながら感想を言い合うのに夢中になって食事のタイミングを逃した。

 熱情を迸らせてその映画のことを話し、一輝に彼の魅力を説明するのは簡単だった。しかしその時には、得意の口調で喋ることになる。一輝には語り聞かせたことのない、牛尾と話す時のような、突拍子もない語彙とハイキーな声音で。そう気付いた瞬間、言おうとしたことを忘れたふりをしていた。咄嗟の判断だったが、自分の趣味を相手に晒したくないと思った時に何度もやったことのある手口で、一輝も素直に笑ってくれた。何とか事故は避けたものの、ブレーキが効きづらくなっているのを痛感させられる出来事だった。

 ただ、あんな芝居で騙されてくれるのは、少し空しい。一輝には、些細なことに頓着しないところがある。これまでのあすかには有難い性質であったが、小説を再び書き始めてからは、鷹揚だと感じていた彼の性質を、鈍感と呼ぶべきかと疑うようになっていた。

 ついにあすかは小説の続きを書き始めていた。ひとまず指が動くままに書いてみようと決め、書いては消しを繰り返すだけだったが、ほんの少しずつ、今自分が作るべき文章のかたちが見えてくる気がしていた。

 およそ普段の生活の中では使うことのない技術で文章を編んでいるうちに、少女時代に男の同級生を、猿を見る眼で見ていた頃の気持ちが胸に戻りつつあった。もちろん一輝は、下品な言葉を連呼してげらげら笑っているような子供ではないし、小説を書くだけで感覚が研ぎ澄まされたつもりになって、他人の察しの悪さをあげつらうのは単なる思い上がりだとも自覚している。しかし、印象の決め方がこうも手前勝手になるのは、文章を書いていた頃の感じ方や考え方が蘇ってきたせいに他ならなかった。

 同人誌を作っている友人が皆、働き始めてからも幼い口調を失っていないことを思い出す。思えば最近仕事をしていても、周りと連携を取ろうとする時、ついいつもと違う、持って回った言い方をしてしまう。作業の進捗、分担の仕方、他部署の誰それと接した時に見受けた反応……。職場で慣用されてきた表現を倣い覚えて、周りを真似て話していれば仕事はこなせたし、相手も十全に理解してくれた。最近のあすかは、自分がどう感じたか、自分の感じたところをどうすれば分かってもらえるか、それを重んじて言葉を選んでいる。何を言っているか分からないと叱られたことはないが、上司や同僚は変化に気付いているだろうか。比較的親しい同僚に「私、最近、変?」と問うのもおかしいと思い留まったが、好機を窺って「私、最近、変?」と切り出すのを何度もシミュレートするのもまた、集団の中での態度をうまく決められなかった学生の頃の癖だった。

 一輝は気付いていないかもしれない。言葉選びの変化は、一輝との会話の中でも明らかになっていたが、その変化はあすかの趣味に深く根差した変化だ。私の趣味を掴んでいない以上、仮に変化に気付いていたところで、一輝はその変化の正体を見抜けない。事実、あんな下手な芝居さえ……。あんな小説を書いていることは、彼には絶対に知られたくない。これまでどんな本を読んで、どういう風に感動してきたかも、月に何本アニメを観ているかも、一緒にドラマを観ながらどういう妄想を膨らませていたかも。しかし、もしも一輝が「教えて」と言ってきたら、私は何もかも隠すのだろうか? 言わずに済んできたことは全部、本当にこれからも言わなくて良いことなのだろうか?

「私、単なるオタクだから、話、面白くないかもよ」

 大学時代、大人数での酒の席で初めて一輝と話した夜のことを、突然思い出した。酒の勢いで言ったせいで今の今まで忘れていた、しかし今のあすかにとってはひどく重要な言葉だった。死角から矢を射られたような驚きから、満員電車の中で間の抜けた「あっ」という声を上げてしまい、あすかは赤面した。――そうだ。趣味の話は全くしてきていないと思い込んでいたが、あのとき一輝に、漫画をよく読むとか何とか話している。アニメの話はどうだっただろうか? しかし結局そうした話は特に弾まなくて、話題は単位とか就活の話に移った。それから何人かで遊ぶことが増えて、次第に二人で会うようになって……。一輝の方から漫画とかの話を振られることはなかったし、どういうジャンルを読むとかいう具体的な話は、やっぱり今までしていない。

 まだ一輝のことを恋愛対象として見ていなかったので、飲み会の時の一輝との記憶は「初めて話した」ただそれだけで、オタクだと明かしたことなどすっかり忘れていた。彼はその後、妻に、趣味のことを訊かない。日ごと自分の肉体と合一していくようだった一輝への愛情が、単なる装備でしかないかもしれないと思えてきて、あすかは奥歯を噛んで思考を止めた。一見冷静な判断に見えるこの認識は、絶望したがりの私が自分をフィクションになぞらえようとした、子供っぽいごっこ遊びでしかない。芝居による自己暗示で夫への愛を曇らせるなんて、ばかばかしいにも程がある。あすかはぎゅっと目をつぶって、平衡を取り戻そうと努めたが、私がこうして頑張るほどに、一輝は私を理解しようと努力しているだろうかと考えてしまい、上機嫌な時に意地悪をされたような悲しみが、眉間の皺を固くした。

 私の大好きなものは、一輝の眼に入らない。それでも、私本人が気付いている私の体臭から、ちょっとした秘密も感じ取らずに、一輝は私と暮らしているのだろうか。もしかすると秘密の影を目にしながら、心得のない分野の話をするのが億劫で、私の趣味を詳らかにしないでいるのか?  いや、それを面倒臭がる一輝ではない。しかし、不心得者の的外れな話し口に、私がいらつくのを恐れていることは有り得る。もしそうだとしたら――一輝がそんなに他人行儀に振る舞っているのなら――それを私への心配りとありがたがるべきなのか? 愛があればこそ、一輝もそうした厄介な仕儀に挑むべきではないのか?

 次第に熱を増していく推論は、降って湧いたような仮定でありながら、日々鍛えてきたはずの一輝への印象を侵食しつつあった。自分の憶測が、夫への感情を微かに揺らしていることにひどく苛々しているうちに、あすかは駅を一つ乗り過ごした。

 

12 

 今にして思えば、あの軍事もののアニメにのめり込んだのは必然だったと言えた。あすかが描く樹という少年は、あのアニメに出てくる天才肌の少年と、とてもよく似たイメージを持っていた。樹は物語の序盤、自信を失ったせいで平凡に過ごしているが、優斗と想いを通わせた後、幼少期のように才気煥発とした振る舞いを見せ始める。すると、優斗を突っぱねていた序盤の傲岸さは、才覚があるから許される強引さへと変じていく。あのアニメのキャラクターの魅力は、まさにあすかがかつて描こうとしたものに近かった。

 あすかは少女の頃の筆の速さを取り戻していた。永いブランクの影響は大きく、速度が上がるにつれて気の抜けた描写が挟まることも増えたが、再び筆を執った当初より、人物を明らかに生々しく描き出せるようになっていた。新たに書き出した部分は、かつての文章とはあまり馴染まない。どれだけ書き直しても、十代の人間が書いているように書くことは叶わず、時を経て再び筆が執られたことは誰の目にも明らかだった。あすかはそれを気まずく思いながらも、そんなことには拘泥していられないほど、樹と優斗の関係をまた描くことに熱中していた。今日も休日をいっぱいに遣い、小説を書くのに時間を費やすつもりだった。近頃の土日をそうして過ごすように、太陽の位置が変わってから時の流れに気付くほどの集中で、あすかはキーを叩き続けた。これだ、この感じだ。この感覚が味わえたからこそ、自分の下手さ加減に嫌気がさしても、身内に読まれたらたまらないほど自分の好みが開けっぴろげになっても、私は小説を書いていたのだ。言葉が私のあこがれている美やおかしみへと放たれて、結晶してゆく感覚。私の小説は、私の理想とする悲劇にも喜劇にも遠く及ばないだろう。それでも、私の撒いた僅かな雫でさえ、あの強い光に射抜かれて虹色にまたたく瞬間がある!

 

 樹と優斗は想いを通わせてから、二人の時間に今までよりも濃い感情が流れ始めるのを感じ、幸せと興奮を覚えながら、焦りもする。やっと再び友情として安定するかに見えた二人の間柄は、樹が顕わにした恋心によって、またも動揺した。小説として描かれる中では、二人の関係は不安定であり続けている。(二人は恋を始めても、第一部で続いていたようなぐらつきへの恐怖を忘れられないし、恋の始まりは現実でも虚構でも揺らぎがちなものだ。そして、長い揺らぎがあるからこそ、安定を迎えることが二人の物語の結末たり得ると、あすかは確信していた。)といっても、あすかが今まさに描いているのは揺らぎの段階だ。恋愛の経験などほとんどない高校生二人の恋。自分たちは恋人同士だという淡い実感が、朽ちかけていた友情に塗り込まれた補修剤に、異物となって混ざる。まして二人は同性で、樹の自覚も、優斗の受容も急であったために、二人は自分のセクシュアリティについて深く考えていない。関係がぎくしゃくするのは当然だった。恋人同士の甘い時間に浸りたがる二人、しかし二人の心のどこかには、彼らをしらふに戻す針が潜んでいる。

 

 二人の動揺が深刻さを増していくのを描く前に、あすかは筆を止めていた。いざその部分を書き始めてみると、一番変わったのは作文の技術ではなく、愛が危機を迎えることへの態度なのだと思い知った。あすかは、一輝との関係が破綻したときの問題を、ある程度なら思い描くことができた。思いつくだけでも、人生に強い打撃を加える問題がいくつもある。それらは自分の肌身に襲いかかる危険なのだと理解することが、結婚への覚悟なのだとあすかは思っていた。樹と優斗の恋愛の危機という着想を得たころには、到底持ち合わせていない覚悟だった。かつて、別れの危機に瀕した樹と優斗は死を選ぶのかもしれない、と夢想したこともある。過剰に劇的なので、すぐに忘れた筋書きだ。しかし今となってみれば、当時の自分は、恋の終わりを死に直結させるほどに、ありきたりな美意識を持っていたのだと思えもした。

 もう私は少女ではないのだと痛感するほどに、少女の自分から引き継いで小説を書いている今、《私が混ざっていく》としか言いようのない、初めて感じる平衡感覚の狂いが生じていた。初めて酒に酔っ払った時や、いい歳になってから珍しく高熱を出した時のような、おかしさすらこみ上げてくる感覚の歪み。それをまったく理性的に感じ取り、適確に受け入れようと努めている。

 あすかにとって、変調が起こることも、ただただ変調を受け入れる自分も、まったく自然だった――昔の私と今の私が混じるんだ、こんな調子になったっておかしくない。それに、そうでなければ今になって小説なんて書き上げられない――あすかは人物の心情を書き表すのに苦心しながら、今の自分の精神状態をいかに喩えようかとも考えていた。コーヒーにミルクを入れるようではない。黒に白が混ざって茶色になるような単純な推移は起こっていない。例えば発酵、受精、ひとつの結合をきっかけに、元の要素とは比較を絶する複雑な事物が出来上がっていくような――。

 あすかの中でゆっくりとした爆発が起こりつつあった。日頃一輝に感じる愛や苛立ち。仕事の中で発見する小さな喜びや普遍的なしがらみ。昔読んだ漫画と最近観たアニメに共通する類型。少女のあすかを苦しめた懊悩と今やそれを下らなく思うあすか、今のあすかの心配を想像だにできない少女のあすか。樹と優斗。二人を発想させた多くのキャラクター、二人を書かなくなってから知った二人に似ている多くのキャラクター、そうしたキャラクターを美しく可愛らしく描いた無数の二次創作。フィクションにおける同性愛と、実際的なそれとの近似と齟齬。小説の形式をかたちづくるべく、それら全てのあいだを火花がゆっくりと行き交って、爆発の姿を少しずつ取りつつあった。

 この小説が完成したら、仕上がりがどうであれ私はそれを公開するのだろうと、あすかは他人事のように、しかし今になって初めて考えていた。この小説は、樹と優斗を生まれさせた見知らぬ自分たちと分け合うべき、ささやかな資産なのだという実感と矜持が、彼女を充たしていた。

 

13

 金曜の夜、あすかは逸る気持ちを抑えながら家路を急いだ。仕事の最中に思い付いたアイディアを小説に加えてみたくて、午前中から落ち着かなかった。十二月に入り、年の瀬の業務の慌しさが既に影をちらつかせていた。小説のことを心配して気もそぞろなあすかは簡単なミスを何度も犯し、先日、直属の上司から強い注意を受けた。当然のお叱りを受けて恥じ入るだけのモラルはあったが、ひとたび原稿に向かえば、仕事で得た痛みなど忘れ去った。

 玄関のドアを開けるとすぐに、居間のテーブルに置いていたノートパソコンを立ち上げる。暖房を点けたのはその後だった。昨日、大鍋でカレーを作った。炊飯器のタイマーはセットしてある。今日一輝は休みだったが、靴やら冬用の下着を買いたいとかで出掛けていて、まだ帰っていない。近頃の忙しさにしては早く帰れた。食事の前に、少し筆を進めたかった。

 

 周囲の眼に敏感になり、関係がこじれていく樹と優斗。樹は自分が告白した責任感から、優斗を不安がらせまいと心を砕く。しかし、その言葉は樹自身が安心しようという怯えから来るものではないかと、優斗は指摘する。それまで優斗の前では格好を付けて、男らしく振る舞おうとしていた樹だったが、優斗に図星を射抜かれて動揺する。その日をきっかけに、優斗の態度が少しずつ変わっていく。無条件の信頼を寄せて、樹の行動に全くけちをつけてこなかった優斗が、樹に意見するようになっていく。樹は何食わぬ表情を保ちながら、飼い犬に手を噛まれたような気持ちに苛まれる。そしてその気持ちは、自分が心のどこかで優斗を侮っていたから湧いてくるのだと思い知る。馬鹿だとか愚図だとか思っていたつもりはない、だけどこいつよりも俺の方が正しいのだと、俺は恋人相手にはっきり格付けをしていた……。樹は自己嫌悪と、保身を見抜かれた恥ずかしさによって、以前ほどまっすぐに優斗の目を見られなくなっていく。こうして一時、二人の力関係は実質的に逆転する。

 

 あすかには、この逆転を書きたいという野心があった。二人の名前を唱える時、あすかは樹を先に呼び、優斗を後に呼ぶ順番を覆せない。この掟めいた決定事項を、描写によって表明する時も近づいてきている。しかし、それはあすかが二人に役割を課して決めたことではない。多くの良質な同ジャンルの作品がそうであるように――二人が役割を負わされたからこそ、官能を帯びた作品もあるが――二人の人格と相関が、樹を先に呼び、優斗を後に呼ぶような関係を作った。だからといって名前を呼ぶ順番通り、樹が優斗を抱き、優斗が樹に抱かれる描写を、お仕着せのように書いてはいけないと思っていた。

 かつてのあすかがはっきりとは言葉に出来ていなかった主題、それは成熟した二人の関係に、絶対不変の役割などないということだった。ボーイズラブでは、セックスの時の立場が作品の印象を決める。あすかの定めた主題はジャンルの否定か、もしくは立場が時々で変わるような関係の礼賛に見えるが、彼女の中にそうした意識はない。むしろ攻・受という、あすかの網膜が鮮やかに捉える不可視の色を描き出すには、必要不可欠な絵の具だと感じていた。強いから弱い男を抱くのではない。マッチョだから中性的な男を抱くのではない。包容力があるから抱かれるのではない。蹂躙された姿が美しいから抱かれるのではない。その二人だから、どちらの立場になるか決まるのだ。二人が立場を選ぶのだ。だからこそ、一時的に攻・受が逆転したかのような状態を書きたかった。樹は攻で、優斗は受だ。だけどそれは、私がそういう名札を二人に付けたからじゃない。そういう風にしようかと二人が決めるからだ。

 規定の課題をクリアしようと努めたなら、勘を取り戻した今のあすかには、ある程度の人数の好みをくすぐるものが書ける。しかしあすかが作ろうとしているのは、同好の士ひとりひとりに差し出す贈り物ではなく、同好の士が住まう場所の隅々まで響き渡る歌だった。私の描きたい理想の二人。生きているから読み手が愛しうる二人。一つの話でありながら、他の全ての作品に通じるもの。私の力が及ばなくて、きっとそう広くまでは行き渡らない、一人でも読んでくれるか分からない、読んでくれても望んだような感動をさせられるか分からない。だけど捧げずにはいられない小説。そういうものを、昔の私は書いてみたかった。今でも書いてみたいのだ。

 午前中に思い付いていたくだりを原稿に打ち込んでみると、一つのピースを嵌めたきっかけでパズルがどんどん出来上がっていくように、言葉が滑らかに続いた。ぴりぴりした関係にあった樹と優斗が、優斗の誘いで子供のころに遊んだ場所を巡ってみようとする場面だ。ノスタルジーに駆られる二人を描く感傷的な場面で、それを描写するあすかのテンションもひときわ陶酔的になった。直感が導いた言葉がシーンにそぐわぬものでないか、前に使った比喩を害していないか、精査しながらも勢いは殺してはならない難しい作業だったが、あすかは少女時代と同じようにそれを楽しんだ。

 一輝が帰っても、手を止めずにはいられないほどに。

 玄関が開く音は耳に入っていた。一輝が帰ってきた、カレーを温めなきゃという思考は働いていた。しかし思考の働きがあまりにも弱すぎて、椅子から立ち上がるのも、一輝を見ようと顔を上げるのも、何年も前に蚊に刺されたのを改めて怒ることのように実行しがたかった。難しさと認識できないぼんやりとした難しさから、あすかはその思考をゆっくりと頭の片隅に追いやり、パソコンに向かい続けた。居間に入ってきた一輝が何か言った。この状況で「ただいま」という言葉以外かけられないだろうと、「おかえり」と返事をした。初めて小説を書いている所を見られているのに、ディスプレイを覗き込まれることに考えが至らない。近頃すっかり取り戻した集中力が悪戯っ子のようにあすかの気を引き、危機感の棘を丸めてしまい、当たり前の反応を取らせずにいた。

 一輝が何か話しているが、あすかにはうまく聞き取れず、生返事ばかりが口をついて出た。一輝の話が途切れないことに、あすかはしぶとい不快感を催し始めた。言葉の渦と戦っている最中聞こえる格闘とは無関係の言葉は、どんな悪罵や厭味よりもあすかを苛立たせた。軽佻な感じの口調から、一輝は出かけていた時の話を面白おかしく語っているようだが、愛想笑いもできない。何事もなければ書けていた言葉が苛立ちによって立ち消え、あすかは眉間に皺を寄せた。

「あすか?」

 一輝に名前を呼ばれた。自分の名前だという馴染みだけを頼りに、一輝の声がようやく意味あるものとしてあすかの耳に届いたが、彼女の顔を持ち上げる力までは持たなかった。

「ごめん、もしかして仕事してる?」

「ねえ、ちょっと静かにして!」

 口から飛び出した言葉が、学生のころ母親に執筆を邪魔された時と同じ声音を持ったのにあすか自身激しく驚いて、文章に向かう集中が一気に解けた。一輝の気遣いに険のある言葉を返したことに気付き、あすかは弾かれたように一輝の顔を見た。一輝はあっけに取られた顔をしている。その顔を次に染めるのは怒りか悲しみかと予想して、あすかは物を壊した子供のように怯えた。

 

14

「ごめん、ごめんごめん、違うの、本当にごめん」

 過ちを犯したという自覚だけでも伝えようとして、ただ詫びた。どんなに格好悪く、取って付けたような謝罪でも、ひたすらそうせずにはいられなかった。このあと起こる一輝の昂ぶりをやわらげようと必死だった。しかし、一輝が示したのは怒りでも悲しみでもなかった。

「なあ、どうしたんだよ。あすか、最近ちょっとおかしいよ」

 続けざまに気を遣われるとは思わず、いよいよ何を話したらよいか分からない。

「どうもしてないよ」

「変だよ、どう見ても。今いきなり怒ったことじゃなくて。いや、今のも変だったけど、その後の謝り方が普通じゃなかったよ。最近ずっと上の空っていうか、ぼんやりしてること多いし。何かあるんだろ? 俺に話してないこと、何かあるだろ?」

「本当に……」

「実家の方で、何かあったのか?」

「へっ?」

 家のことを訊かれるとは思わず、間の抜けた声が出た。

「なんで実家の話になるの」

「だって、仕事の悩みとかだったら、前から隠したりしないで言うだろ。俺に言わないとなると、そういう話かと思って」

 ゆっくりと優しい気持ちが胸に満ち始めるのを、焦りでいっぱいになった頭が、麻酔越しの痛みのように感受していた。筆力を取り戻す一方、幼稚で物知らずな分だけ純粋だった自分まで蘇らせたあすかを、一輝は見ていたのだ。彼が一緒にアルバムを開いて、自分の思い出を愛でてくれているような安らぎを感じた。しかも、日頃の振る舞いを鑑みた上で、私のしこりをほぐそうと手を伸べてくれている。まだ言葉にならない感謝が、あすかの瞳を濡らしかけた。

 混乱した今の自分では、的確に言葉を選べるか、自信がなかった。しかし一輝の態度に嘘で応えることは、彼への冒瀆に他ならないという思いが、あすかに今起きたばかりの沈黙と、付き合い始めた頃から続いていた沈黙とを破らせた。

「……最近ね」

「……うん」

 あすかが秘密を明かし始めたことに気付いて、一輝は真剣な面持ちになり、座ったままのあすかと向かい合うように、椅子に腰掛けた。今から告白することを、彼は笑い飛ばすだろうか。呆れるあまり怒るだろうか。

「小説、書いてるの」

「……ん?」

「小説」

 一輝は何の話をされているのか分からない様子で、訝しげにあすかを見つめ続けた。

「昔書いてて、完成させてなかった小説を、また書き出したの」

「……うん」

「最近、そのことで頭がいっぱいで。今も、書いてたの」

「……応募したり、するのに?」

「ううん、そういうんじゃない。昔見せてた人には、見せるかもしれないけど……小説家になりたいとか……そういうんじゃない」

「……そっか」

 一輝は困惑を隠さず、口元に手を近付けて、あすかから視線を逸らした。何をどう考えても、一輝にはこの話を深刻に捉えるべきか否かさえ判断できず、妻にかけるべき言葉を思い付けもしなかった。一輝は相槌を打った後、あすかが再び話し始めるのを待つしかなかったが、あすかがうつむいて唇を固く結んでいるのを見るのに耐えかねて、質問を絞り出した。

「……読ませてくれる? 完成したら」

「駄目! 絶対駄目!」

 弾かれたようにあすかは顔を上げ、ひどくうろたえながら、大声で拒絶した。さして読みたいと思って言ったわけではない一輝だったが、あすかの狼狽の仕方にやはり尋常ならざるものを感じ、いま彼女が話していることは出任せではないかと疑い始めた。

「見せられるような内容じゃないの、ごめん、本当に無理」

「うん……」

 気まずい沈黙が部屋に戻った。ちょっとした喧嘩で会話がなくなる日は、今までにもあった。しかしそれは、原因が二人ともに明らかな沈黙だった。あすかの秘め事に端を発する今の沈黙は、あすかにはひときわ息苦しく、一輝には不気味だった。

「何ていうか……ちゃんとした小説じゃないの。昔、確か言ったけど……私、オタクなのね。一輝とは、趣味が合って付き合い始めたわけじゃないじゃない? だから、お互いの趣味の話、これといってしたことなかったけど……。一輝が休みの日、ボルダリング行ったり、走ったりしてるの、私は知ってるけど、一輝、私が休みの日何してるか知ってる?」

「……はっきりは分からないけど、家のこと、マメにやってくれてるとは思ってた。後は、袋とかが目につくことあったから、映画とか借りて観てるのかなって」

「うん、映画も、まあ観てるんだけど……。アニメとか、すごい借りてくるの。一輝が思ってる何倍も多分借りて観てるの」

「うん……うん、ちょっと待って。それ隠してたのが気まずくて、今こういう話になってんの? そりゃ、ちょっとは意外だけど、そういうレンタルなんていくらもかかんないでしょ?」

「お金とかじゃないの、内容なの」

「内容?」

「……私、腐女子なの」

「いや、そりゃ婦女子でしょ」

「気付いてたの?」

 一輝がいっそう怪訝な顔をしたので、あすかはようやく自分の言ったことの意味が通じていないのに気が付いた。体のそこかしこからじっとりした汗がにじみ、心地よいはずだった暖房の風が鬱陶しくなった。義務感さえ勝手に覚えて子供時代から蒐集してきた物が、一輝の眼には少しも輝いて映らないと思い知り、あすかは自分の考えを伝え切れるか不安になった。一輝には分からないのだ。表紙の美しさに心を奪われて「この本を買わなきゃ」と思うあの早さが、役者の名前を見ただけで「このアニメを見なきゃ」と思うあの早さが。知り得る限りの全てを知りたいと思うあの遠大な飢餓感が、あの自縄自縛の快楽が。

「あの、腐女子って、そういうフジョシじゃないのよ。腐るに女子って書いて腐女子って、見たことない?」

「腐る? 豆腐の腐?」

「そう。あの、つまり、BLが、好きというか」

「BL……ああ、何ていうか、男同士の?」

「ああいうのが好きな女を、腐女子って言うの」

 うつむきながらそう絞り出すと、ノートパソコンが開いたままであると気付いた。間を取って、一輝からの返事がないのを確認すると、あすかはパソコンをゆっくりと閉じてから言葉を継いだ。

「自分で書いてるこれも、そういう内容なの。一輝に見せるのは……一輝だからとか、知ってる人だから嫌っていうのもあるし、男の人にどうぞって出しづらいから、っていうのもある」

 あすかがおずおずと顔を上げると、一輝は不安とも困惑とも言える微妙な表情をしていた。秘密をあらかた打ち明けたあすかは、一輝の言葉を待とうと決めたが、良心の呵責から自白した時のような解放感は全くなかった。今の表情の一輝が、次にどんなことを言ってくるのか想像できないことが、ただ恐ろしかった。

「何で、そういうのが好きなの?」

 あすかは一瞬、責められているのかと思いかけたが、一輝の言葉には単純な疑問の響きがあった。

「俺、そういうのが好きな人と、多分初めて話してるから、全然想像できなくて。ぶっちゃけ、この話どう進めればいいか分かんないから、ちょっと教えてほしいんだ」

 予想より遙かに苛酷な話になる。あすかはそう思って、今日一日の仕事の疲れを倍したような疲労感が、体にのしかかってくるのを感じた。同じ国の程近いところで生まれ育っても、これだけ培ったものに違いが出る。関係が深まってから、それを同じ言語で分かち合おうとすると、こうも骨が折れるものなのだ。そして大変なのはこれからなのだ。

「多分、一輝が話してきた中にも、そういう人はいたと思うよ……」

「そう? でも、そのことについて話したことは、今までないから」

「そうだろうね、オタクじゃない男の人とは……。ていうか、何で好きかは言えないよ、言葉にできない」

「そうなのか」

「だって、一輝、カレー好きな理由、説明できる?」

「できないね」

「それと、同じなの」

「ちなみに、いつから好きなの?」

「えっ?」

「俺、女の子向けの漫画とかアニメ全然知らないけど、そういう内容の話って聞いたことないから……昔からそういうの好きだったのかなって」

 難しい質問だった。確かに少年愛を描いた少女向けの作品は多くあるし、解釈の可能性を含む作品なら、より多くある。小学生時代のあすかも、少女誌に現われるキャラクターにそうした魅力を感じていたからこそ、盗作同然の小説まで書いた。ただ、あすかが趣味を自覚したきっかけは別にあった。

「……商業アンソロジーっていう、漫画の単行本があるの。きっかけは小学生の時に、それ読んだこと。アンソロジーって、寄せ集めみたいな意味なんだけど、要は、既存の漫画を別の人が描いた単行本なの。普通の少年漫画とかを」

「えっ、いいの、そういう本」

「許可取ってればね。無許可のはそりゃ駄目だよ、それでTPPでコミケがやばいみたいな話もあって……。とにかく、そういう本って、男同士のキャラが付き合ってるみたいな勝手な設定のが超多いの。そういうの読んで、はまった、という感じ、です」

「好きだった漫画の、そういうの読んで」

「そう、だね」

 話している途中から、私は何を喋っているのだという煩悶が勝って、口調が淀んだ。一輝の口調がフランクなことは気楽ではあったが、自分が深刻そのものである以上、嫌らしくも感じた。嫌らしく感じているのは私の勝手じゃないかと思いはしたが、心が落ち着くわけでもなかった。

「それで、自分も小説でそういうの、書くようになったんだ」

「うん……」

 少しの沈黙の後、次に言葉を発したのは一輝だった。

「確かにまあ、女はホモが好き、みたいな話は聞いたことあるよ」

「……うん」

「それはさ、イケメンが好きなのとは違うの?」

「……違う。イケメンじゃなくても、そういう風に見られる人はいるし……」

「そっか、違うよな。そういうのと違うから、あすか、言わずにいたんだもんな」

「ごめん」

「謝るなよ。別に、悪いことじゃないだろ」

 悪いことではない。そう一輝に言われて、自分の作品をちゃんとした小説じゃないと述べた理由が、今になって分かる気がした。あすかは猛然と走り出した自らの思考の中へ、戸惑いながらまっすぐに落ちた。

 一輝に自分の趣味を明かさずにきたのは、後ろめたさのゆえだった。あすかには少女の頃から、ぼんやりとした、しかし確かに感じる「私は正しくない」という実感があった。あすかの思考においては、「私はオタクだ。だから正しくない」という理屈が通用した。異性愛者として生きながら、男同士の愛をことさら美しく思うのは実際倒錯だし、友人やクラスメイトや仕事仲間に過ぎない二人を恋仲だと妄想したりするなど、その骨頂だ。少年同士の恋を綴る自分の小説を「ちゃんとしていない」と評したのは、一般的とは呼びがたい嗜好から発生した、趣味性の強いものだからだ。一輝は、小説を賞に出すのかと訊いた。一輝の想像の中には、私の思う「ちゃんとしている」ものしかないから、賞に出すという選択肢が浮かんでくるのだ。私のような、ちゃんとしているかどうかという判断が、彼の中には存在していないのだ。あすかが一輝に感じていた最も決定的な自分との差異、あすかに後ろめたさを覚えさせていたものは、まさしくこれであった。

 ちゃんとしているか、そうでないか。あすかにそれを分別させたのは出来不出来でもなければ、商業作品かアマチュアの作品かの違いでもない。逸脱的かどうかだった。異形を愛でようという心向きがあるかどうかだった。

 子供が虫魚の類を弄んで殺すのは、獲物が手を伸ばす所にいるためで、その殺生に深い業はない。あすかは――あすかたちは、時間と金を割いて虫魚を探し求める。美麗な男たちが不自然な肛門性交に耽る情景を、あすかが特別美しく官能的だと思うのと同じように、多くの驚嘆すべき者どもが、愛らしいグロテスクとの邂逅を待ち望んでいる。衣装にも演出にも修飾が過ぎるアイドル。アンサンブルを放棄した、雑音を出すだけのバンド。脂肪の付き方も耳朶のかたちもおよそ生物学的に不自然な、一応の〈美少女〉の絵。臓物料理を食う気が失せるスプラッター

 万人に広めようとは思えない娯楽を愉しむ彼女たちを、見世物小屋を面白がる差別者だと言うような嘲りの声も巷にはある(実際あすかには、見世物小屋を覗いているような錯覚におぼえがあった)。そして、あすかたちが愛する幾億の散文や素描や旋律もまた、一見グロテスクには見えないとか知名度が乏しいとかいう理由から、嘲りを呼ばぬまま世界中で発生している。

 わざわざ唾を吐きかけられなくても、あすかには端にいる準備が出来ていた。こんなに業深い私たちが、グループとか文化の中心に配置されるべきではない。趣味の勝手な開陳など面白いものではないが、好みのとち狂った人間がそうしてもひどく顰蹙を買うだけだし、生きていくためのタスクを、趣味と繋がらないものから選んでいくことはできる。あすかは集団の中でそうやって立ち働いてきた。

 一輝のことも、そうやって受け容れた。この人は善い人だ、頼もしい人だ――そしてわざわざ私の宝物を暴いて踏みにじったりしない。

 あすかは日々が楽しかった。一輝の存在も、障害の少ない労働もありがたいものだったが、彼女の大切な愉楽とは関わりがなかった。彼女は特殊な物語から尽きない幸せを汲み上げることができ、その分の幸せだけで楽しかった。その楽しさに忠実であることが自分の望む生き方であり、その快楽に悖るから、自分は小説を完成させなければいけないと思ったのだ。

 私は気持ちよくなるのに器用だったから、それ以外が不器用になってしまったのかもしれない。もしそうだとすれば、私は一輝のことを器用に愛せないだろう。私が熾せる一番熱い火は、一輝を暖めないかもしれない。最も素直に叫べる愛の言葉が、現実よりも虚構に捧ぐべきものであるなど、世間の誰も真っ当だとは言ってくれない――私自身おかしいと思うのに。彼女はすぐに自己弁護を試みた。素直に発露させられるのが、優れた愛の証とは限らない。一輝への気持ちと架空の人物への愛着を比べるのは愚かだ。しかし「好き」という言葉で物事の重さを量ろうとする時、一輝や肉親や友人と共に、樹と優斗、様々なフィクションやそのキャラクターが思い浮かぶのも事実だった。

「あすか?」

 表情を険しくして押し黙った彼女に、一輝はおずおずと声をかけた。あすかの意識は、一輝との対話を円滑なまま保とうとしたが、自らを省みる思考の動きは一切衰えず、時として彼女を切りつける容赦のなさを維持していた。

「悪いことじゃないのかな?」

「えっ?」

「すごく楽しいだけのことにのめり込むのって、正しいことなのかな? 他人が嫌な顔したり鼻つまんだりするようなことでも、本当に悪くないのかな?」

 一輝が答えに窮して少し経った後、炊飯器が明るいメロディを立てた。飯が炊き上がったのだ。二人は音に反応して炊飯器を見ると、温かな飯の匂いが炊飯器から漏れていて、自分たちの鼻がそれを嗅ぎ取っていたことをようやく認識した。すると押さえ込まれていた空腹感が、地震のように二人を突き上げた。あすかはゆっくり立ち上がって炊飯器に近づき、炊けた飯を混ぜた。それを見ていた一輝も、黙ってカレーを温め始め、食器を出した。

 あすかは、一輝に投げかけたばかりの迷いが、自分の生き方を変えないことをよく分かっていた。一輝との生活は続くだろう。小説も書き続けるだろう。しかし一輝に問わずにはいられなかった今の言葉は、最後の一刺しが肌を離れたばかりの刺青のように、あすかに貼り付いたままだった。

 炊き立ての飯で食う昨日のカレーは美味しかった。あすかは食事を味わったが、それを余計に美味しく感じさせるためのものを一つも見つけられなかった。

 

15

 翌日の土曜日は、珍しくあすかと一輝揃っての休日だった。

夜も更けて、二人がお互いの顔色を窺いながら揃って唱えた「おやすみ」という挨拶は、今夜のところは話し合うのを止そうという示し合わせだった。あすかたちはいつものようにベッドに潜り込んだが、裸の胸を重ねる夜を幾晩もここで過ごしたのに、今は何と多くのものが自分たちを隔てているだろうという思いから、不健康な睡眠を強いられた。

 悪夢も立ち入れない浅い眠りから覚めて、あすかは一輝を起こさぬようにベッドから出た。まだ七時にもなっていない。一輝は夜半に眠りの尻尾を掴んで、今やっと安眠を貪っていた。あすかは一輝の熟睡を見て取ると、夫が心地よく眠っているのを喜び、自分を寝かせなかったものが彼には爪を立てなかったのだと恨めしく思った。

 まだ朝日が満足に差し切っていない冬のリビングは冷気を維持していて、昨夜あすかが撒いた苦悩のしぶきが凍り付いているかのようだった。あすかは暖房を点け、電気ポットで湯を沸かし始めた。沸騰までの間に、あすかは沸かした湯で何を飲もうか思案したが、頭が冴え切っておらず、紅茶かコーヒーかインスタントのスープかと迷っているうちに湯が沸いて、結局白湯をそのまま飲んだ。

 マグカップ一杯の白湯を飲むうちに部屋が暖まり、意識もはっきりと覚醒した。あすかはしばらくテレビの天気予報を眺めていたが、カップを洗うついでに料理を始めた。固形コンソメを使って簡単なキャベツと玉葱のスープを作り、切った野菜と水を専用の蒸し容器に入れて、電子レンジの中に入れた。そうしているうちに、一輝も起きてきた。二人で気まずげな挨拶を交わすと、あすかはレンジの野菜を熱し始め、その間にハムエッグを焼き始めた。レンジが止まると今度はトースターでパンを焼き、あっという間に一輝の前に一汁二菜の朝食を広げた。

「おお、豪華だね」

「……まあね」

 二人の毎朝の食事のほとんどは、牛乳やヨーグルトをかけたシリアルとか、パンにインスタントのスープや飲み物を添えただけの簡素なものだった。今日に限ってあすかが料理をしたのは、言うまでもなく、昨夜から続く雰囲気を搔き消すためだった。

 あすかはハムエッグに軽く塩と胡椒をかけたが、予想通り一輝は卵をトーストに乗せ、その上から中濃ソースをかけた。自分の想像どおりに事が進むのを小気味よく思いながら、あすかは蒸し野菜にフレンチドレッシングをかけたが、一輝がパンにかぶりつかないことに気付いてフォークを持つ手を止めた。

「どうしたの?」

「ああ、いや」

 一輝はすぐにパンに食らいついた。半熟だった黄身とソースはパンの皿に少ししかこぼれず、わずかにこぼれたそれも、一輝は一口分残したパンの耳で綺麗に拭って食べた。

 特に会話もないまま朝食が済んだ。私は本当に悪くないのかと問うたままの話し合いは、もうこれで終わりになればいい。そう考えながら洗い物を片付けて洗濯を始めると、掃除機かけるよと一輝に断って暖房を止め、あすかは窓を開けた。リビングは日当たりが良いが、さすがに風の冷たさの方が強い。部屋の中の暖気と食事の熱がなければ耐えられなかった寒気が、あすかに向かってきた。

 掃除を済ませて洗濯物を干し終え、窓を閉めると、あすかは無意識のうちに、居間に置いたままのパソコンを立ち上げていた。一輝は片手にコーヒーを持ちながらソファで雑誌を読んでいたのだが、一連の操作音を聞いて反射的にあすかの方を振り向いた。あすかは一輝と目を合わせ、これでは今から小説を書きますと言っているようなものだと気付き、慌ててパソコンを抱えて寝室へと逃げた。寝室は掃除機をかけたあと窓を開けたままで、外同然に寒かったが、贅沢は言っていられない。ひとまずティッシュなどを置いていたサイドテーブルの上を空けてパソコンを置き、窓を閉め切るとベッドに腰かけた。まだ動揺は続いていて、とても文章を書き始める気になれなかった。

 風が吹き込まなくなり、日差しが少しずつ部屋を温めても、あすかは小説のファイルを開くことさえせず、シーツを剥いだ布団のよそよそしさをじっと感じていた。すると、玄関が開く音がした。一輝が外に出て行ったのだ。あすかは寝室を出ると、固く閉じた玄関の扉を日当たりの悪い廊下からじっと見つめ、芝居じみた口調で「一輝?」と呟いた。夫を呼びとめるためではなく、かつて小説にしたためた似たようなシーンを、何となく演じたのだった。有り得ないと承知しているので、一輝は私に愛想を尽かして、もう二度と戻ってこないのだと考えた。愛撫を受けている時のような誇りに似た恥ずかしさが、あすかの脳に一瞬白熱した後、実に冷ややかな平静が広がった。あすかはすぐに寝室に戻り、小説に取りかかることができた。

 一時間もしないうちに、一輝が帰ってきた。「ただいま」といういつも通りの声と、ビニール袋の音を伴って。一輝がすぐに帰ってくるとは思わず、手直しに没頭し始めていたあすかは不意を打たれて、一瞬強盗に入られたように驚いた。

 一輝はまずリビングへ向かった後、すぐに寝室のところまで来て、ドアをノックした。

「は、はい」

 うろたえながら迎えたあすかをよそに、一輝はまったく自然に顔を覗かせた。

「昼飯、作ったら食べる?」

 固まった表情のままあすかが頷くと、一輝は微笑んで、

「十二時とか、それぐらいには出来るから」

 そう言うとドアを閉め、リビングに引っ込んでいった。あすかは竜巻をやり過ごした後のように脱力した。一輝に食事を作ってもらうのは、恋人時代から数えても初めてのことだった。あすかの気はどうしても落ち着かず、そのあと小説には手を付けられなかった。

 文章を書くのを諦めて、ツイッターや動画サイトを漫然と眺めていると、いつの間にか十二時を回っていた。何かを炒める音が聞こえてくる。親を怒らせた子供のような足取りで、あすかがリビングに踏み入ると、そこには屋台で嗅ぐようなソースの匂いが広がっていた。

「腹減った? もうすぐ出来るよ」

 一輝は深型のフライパンを振るいながらあすかを見て、浮かれた感じで振る舞っていた。手つきが危なっかしいわけではなかったが、何となく質問をするのが憚られた。

「水、出すね」

「うん。あと、スプーンお願い」

 スプーン? あすかはソースの匂いから、焼きそばが出てくると思い込んでいた。水を注いだコップと、言われた通りスプーンを置き、テーブルについた。一輝は出しておいた二枚の大皿にフライパンの中身をよそって、上から何かを振りかけた。

「完成」

 あすかの前に出されたのは炒飯のようだった。最後に振りかけられたのは青海苔で、漂う香りはまさに焼きそばのそれだ。輪切りのウインナーとみじん切りのキャベツも入っている。嗅ぎなれた香りと熱気が、あすかの食欲を刺激した。

「いただきます」

「まあ食ってみて」

 飯にスプーンを差し込んで、その軽い手応えにあすかは驚いた。中華屋で出てくる炒飯のようにさっくりとしている。あすかが作るより本格的な出来栄えだ。初めの一掬いにはキャベツもウインナーも乗らなかったが、そのまま口に入れた。スプーンで捉えた時に予想した通り、飯は口の中で小気味よくほぐれた。ソースだけか他に足された味があるのかよく分からなかったが、味付けも程よく甘辛い。具の塩梅を知りたくて、キャベツとウインナーが口に入るよう、二口目を食べた。一輝が感想を聞きたがっていることに気が付いたのは、スプーンを口に入れた後だった。ウインナーの塩気が交じると、一層おいしい。キャベツにはそれほど火が通っておらず、食感が良かった。噛んでいると、葉の中から水の味を感じる。キャベツは最後にフライパンに入れたのだろう。水分が移っていないから米が乾いているのだ。

「おいしい」

「本当? そうだろ?」

 疑うようなことを言っておきながら、続けざまに自信にあふれたことを言うので、あすかは思わず噴き出した。昨夜から笑っていなかったと、噴き出した後で気が付いた。一輝も自分がいかに感情を整理できないまま話したかを思い知って、恥ずかしそうに笑った。

「私、こんなにパラッと炒飯作れない」

「そういえば、あすか作ったことないか」

「下手だって分かってるから、作らないようにしてるの」

 一輝は固唾をのんであすかの反応を窺っていたので、まだ自分の皿に手を付けていなかった。あすかに褒められて気を良くし、一口二口と飯を頬張ると自分の手並みに満足して、咀嚼をしながらうんうんと頷いた。

「まあ、久しぶりに作ったから、かなり心配ではあったんだけどさ」

 飯を飲み下した一輝は、はにかみながらそう言った。二人で暮らし始めてから一年、あすかは一輝の料理する姿を見ていない。一人の休日に作っていたなら別だが、随分なブランクがあったと見るべきだろう。それにしては良い出来だ。

「でもこれ、本当においしいよ」

「これだけしか作れないけどね。麺抜きのそばめしみたいなこういう炒飯が無性に食いたくなって、実家にいる時に覚えたんだ。お袋から、キャベツはしっかり水切って最後に入れろとだけは教わったけど、炒飯うまく作るのだけは、お袋より遙かにうまく出来るんだよな、なぜか」

「お義母さん、料理上手なのに。ねえ、本当に何でこんなにパラパラしてるの? 普通のソースでしょ、これ?」

「普通のっていうか、これね。さっきウインナーと一緒に買ってきたんだよ。あっ、昨日冷凍したご飯とキャベツ、勝手に使った。でもキャベツはまだ全然あるから」

 一輝は調理台に置いてあった、果物やホールトマトのそれより一回り大きな缶を、あすかに見せた。それは焼きそばの袋に同封されているような、ソースの粉末の缶らしかった。

「こういうの、売ってるんだ」

「最初行った店に置いてなくてさあ、スーパー2軒ハシゴしちゃったよ」

 水分のない調味料で味をつけていたのかと少し納得したが、それにしてもうまく炒められているし、ダマも出来ていない。一輝の手技が良いことには疑いの余地がなかった。

「これからもたまに作るけど、何か炒め物とかする時、使えたら使って。そんなに減るもんじゃねえから」

「うん」

 これからも料理をするという宣言を飲み込みかけて、何となく相槌を打ってしまったが、あすかにとって、それはなかなか衝撃的な言葉だった。この一年、台所は完全にあすかが司ってきたのだ。

「休みが一緒になる日なんて少ないけどさ。小説なんて書くなら、できるだけ集中してたいっしょ? これぐらい、訳ないから。レパートリー、マジでこれだけだけど」

 私がひたすら気まずく思っていた昨日からの沈黙の中で、一輝は私をどう思いやるか考えていた。胸に芽吹いた感情で、顔をほころばせることも涙することもできそうだったが、あすかは微妙な表情を作ったまま、反応を示せずにいる。

「俺ね、どう考えても、多分あすかが本当に気にしてること、分かんないんだ。変わった趣味があるからどうなんだって思う。だって、そんな話しないでも、付き合いたいとか結婚したいって感じてきて、これまで普通に暮らせてきたんだし。小説とか書くのだって、それがやりたいことで楽しいんなら、全然悪いことなんかじゃないって思うよ。でも、いや、だからか。あすかの中で何か違うなっていうことがあって、本当に悪くないのかなって思ってるんだろうけど、俺には分かんない。分かれればいいけど、想像もつかないことって、分かろうとしても上辺の理解になるだけだろ」

「うん……そうだね。もしかしたら、分かち合えないこと、なのかもしれない」

「うん。でも、夫婦だからって、全部共有しようなんて無理だよ。俺、あすかのこと分かんないなりに気にかけたいよ。ゆうべ考えたけど、あすかだって、多分俺のことそうやって気にかけてきただろ? お互い忙しくて洗濯物溜まってた時に、俺の休みの前の日に部屋干しして、ウェア用意してくれたりしたじゃん。あすかスポーツ興味ないだろうけど、あれってそういうことだろ? ああいうこと、俺にもさせてほしいんだよ」

 一輝が柔らかに話すのを聴いて、ああ、笑うより泣く方が私の今の心に似合っている、と思った。不思議と涙は溢れなかった。けれど、実際に涙はこぼれなくても、痛切な物語に胸を引き裂かれた時に「泣いた」と感想を述べるように、私は今泣いていると思った。

「一輝」

「ん?」

「私ね、本当に分からないの。一輝のこと大好きだよ。今言ってもらったこと、全部心底うれしいの。でもね、小説とか色んなこともずっと、もうずっと大好きで、順番とか、もうよく分かってないの」

「うん」

「それでもいい? 人でも何でもないものと同じぐらい好きでいられて、不愉快じゃない?」

「……やっぱりよく分からないけど」

 一輝は言葉を切って水を飲んだ。グラスのふちが脂と海苔に汚れたのを、あすかははっきりと認めた。

「でも、何かを好きなのって良いもんだろ? あすかにそんなに好きなものがあるのは、悪いことじゃないって思うんだ」

 中学生だった冬の日、初めて一人で喫茶店に入って飲んだ紅茶のような温かさが、あすかの体を満たした。あすかは一輝の告白を受け入れた理由を、優しさだと思ってきた。だからこそ人に彼の魅力を問われた時、いつも具体的なエピソードを用いて、彼の優しさを説明した。彼女を本当に惹きつけるのは、惚気話にも使えないようなこうした優しさだった。普段は口の端にのぼらない一輝の優しさが、不意にその温度を自分に当ててくれる時の安らぎを、あすかは愛してやまなかった。

「そりゃあ、どっぷりハマって仕事もやめて家事もしないでってなると、マジかよって思うけどさ」

「さすがにそれは有り得ない、大丈夫」

 二人の間に昨夜の息苦しさはもうなく、和やかな談笑があった。あすかは一輝の言葉を胸に抱いた。

 一輝はこうして私を慰撫してくれるが、その指も、私の妄想をつまびらかにした時、今ほど滑らかに撫でてくれるのかは分からない。結局一輝は、私がおぞましいと思いながら愛している芸術を、実際に目にしたわけではないのだ。それでも――背徳を感じながら惹かれるものに溺れ切る私を、彼は引き止めてくれるかもしれない。

 これまで、自分の趣味に危機感を覚えるのは、グロテスクが時に醸す毒素によって正常な判断を失う恐怖のせいかと思っていた。もしくは、快楽が大きい余りの揺り返しで、不安を催しているのかと思っていた。それだけではない。もっと大きな理由があったのだ。私は多分、今暮らしている陸地から趣味の沼に飛び込んでも、そこで息ができる。ただ、ずっと水にいたら、今使っている肺は退化して、陸に戻れなくなるだろう。変態するのが、私は何より恐いのだ。陸に戻れなくなることも、肺が萎えて鰓でしか呼吸できなくなることも恐いのだ。一度体が慣れてしまえば、多分私はずっと楽しいままだから。ただし、楽しい間にきっと何かが壊れる。肺が不要な臓器と化した時に始まる新しい生命活動の中で、理性の大切だった部分も使わなくなるだろう。きっとそれは、私が小説を書くにあたっても重要な器官なのだ。

 一輝は水で息ができない。私は一輝といるためにも肺呼吸を捨てない。私が本当に吸い込みたいのは、水の中の酸素なのかもしれない。けれど、彼も大事だと思ううちは、必ず――。あすかは脈絡なくありがとうと呟き、戸惑う一輝を尻目にスプーンを口へ運んだ。今の幸せを知らないまま書き始めた小説を、今の私が書き上げようとしているけれど、それは決して悪いことではないと、あすかは初めて感じていた。

 

16

 冷え込みによっては雪になるかもしれないという予報は外れ、真っ暗な町に針のような雨が降っていた。日付が変わった。朝になれば仕事へ行くのに、あすかはまだ原稿に向かっていた。一輝は布団に入り、リビングにはあすか一人が残った。深夜の電灯の灯りは、冬の濃く固い闇と弾き合うように眩しい。

 あすかの執筆は終わりを迎えようとしていた。挨拶回りに追われた正月休みを取り戻すかのように、あすかは平日の夜にも旺盛に文章を編んだ。元からそうした献立が好きなせいもあったが、すぐに出来る丼やスパゲッティばかり作っても、一輝は嫌な顔をしなかった。

 

 樹と優斗は、友達として想いの通じ合っていた幼い頃を省みて、恋し合った今は果たして幸せだろうかと考え始める。そしてどちらからともなく、少し距離を置こうと決める。告白によって親友との関係を損なったと、自責の念に駆られていた樹。優斗もまた、単に友情とは呼び切れない感情を樹に抱いていたが、自分を追いつめる樹に寄り添い、彼を見つめ続けるのが辛いのも事実だった。そんな中、優斗の憧れた自分を取り戻そうと心がける姿に惹かれ、同じ高校の女生徒が樹に告白する。それは優斗にも知られることになる。学校で過ごす中で突然訪れた二人きりの瞬間、優斗は思わず問いかける。あの子と付き合うのかと。すぐに近くに人がやってきて、二人の会話は寸断される。樹は優斗がどんな思いからそう言ったのか、優斗自身なぜ樹にそんなことを言ったのか、判断が付かない。そして優斗は永い煩悶の末、呼び出した樹にこう告げる。「タッちゃんと一緒にいたい」と。友達としてでも、憧れのクラスメイトとしてでもない、樹への恋に焦がれていると。樹は女生徒からの告白には応えなかったことを明かし、もう一度優斗に愛を告げる。また一つ苦悩を越えて、紡げるようになった言葉で。

 結ばれた二人は傍目には親友として、その実は愛を通わせ合った恋人同士として高校生活を終えた。二人は同じ大学に進学する。樹は一般入試で名門とされる法学部に入り、優斗はAO入試で文学部に入る。一緒に登校しながら、「学力足りないんだから、真面目に勉強しろよ」と茶化す樹に、優斗も朗らかに応える。

 

 こうした二人の日常のワンシーンを淡々と描くことで、直接的には語らぬままに明るい未来を暗示させて、小説は幕を閉じる――そのはずだった。いや、一度も筆を止めずにこの作品を書きあげていたなら、きっとかつてのあすかはそうした描写を選んだだろう。しかし彼女は敢えて、一行を空けて最後の一文をこう綴った。

 

その後、樹と優斗は幾多のすれ違いや障害に出会ったが、それを上回る幸せを見つけながら添い遂げた。

 

 ここまで明らかにハッピーエンドだと謳うことは、作品を貶めるかもしれないという危惧はあった。それでも、あすかには書かずにはいられなかった。道のりは平坦ではないと強調するのは、〈生活〉を意識しがちな昨今のボーイズラブへの意識のためかもしれない。人間二人の愛の強度を信じようとするのは、夫への愛に報いたいというあすかの思いの表れのようでもあった。どれも正しい考えに思えた。しかし、見れば見るほど杜撰に感じられながら、それはどうしても削りがたい一文だった。こんな風にパートナーといられたら、確かに幸福であろう。そう思いながら、あすかは自分が一輝と見つけられるかもしれない幸せと、樹と優斗が見つける幸せとが、必ずしも同じではないことを妙にはっきりと確信していた。これは私や私たちの物語ではない。これは私の好きな物語であり、私たちに読んでほしい物語だ。

 張り詰めていた緊張をほぐすように息を吐いた時、遠くから長いクラクションが聞こえた。あすかはそれを、今死んだものの棺を乗せた霊柩車のクラクションだと思った。何が死んだと言うのだろう? 小説が? 少女の私が? 違う。この小説を書くことが今死んだ。

 あすかは冬が明けきらないうちに推敲を終え、全文をサイトにアップロードした。当時連絡を取り合っていた誰にも、サイトの存在さえ知らない誰にも、小説を書きあげたことは告げなかった。更新を行なったことで、サイトに表示されていた広告が消えた。あすかはサイトの本来の姿が蘇ったのを見て、柔らかに微笑んだ。

 

 17

 完成した小説は、何人かに読まれているようだった。ひとりの人間が複数の端末を使う時代だ。アクセス数すなわち読者の人数ではない。誰かのツイッターやブログにリンクを貼られたとか、そういうアクセスの付き方ではないようだ。コンスタントにいくつかのアクセスがあり、それが途絶えたと思うと、またいくつかのアクセスが付く。一人の人間であっても、アクセス数に近い数の人間であっても、あすかには手を取って礼を言いたくなるような相手だ。今になって作品を完結させた心境も、短い文章にしてサイトに上げるべきかと思ったが、無粋な文章しか書けなかった。

 あすかは時々、小説を書くようになった。その全てが二次創作だ。牛尾から勧められたあのアニメの小説を、主に書いている。どこにも公開はしていない。書いたものは、ただ彼女のフォルダを埋めるファイルとしてあった。気兼ねするところが少しなくなり、一輝の目に触れるのが嫌でないアニメは堂々と観るようになって、単純に鑑賞の本数が増えたことも影響していた。環境が変わった途端に遠慮がなくなり、インプットの増加が創作意欲に直結するあたり私は筋金入りだと思い、それはちょっとした自己嫌悪の種にもなった。元々趣味の話を淡々とするだけだったツイッターでも、力の入った感想を書くことが増え、牛尾に変化を指摘された。文章を書くのが習慣付いたせいなのは明らかだったが、一つ話せば全て話さずにはいられないと分かっていたので、牛尾には何も明かさなかった。小説を書き上げたことよりも、こうした変化によって、私は一生オタクだとあすかは実感した。

 一輝との関係は変わらなかった。一輝は時々、あすかと一緒にアニメを観ては「これから膨らませた妄想も、俺に見せたくないようなものになるの?」と訝しがる。堂々と観るにあたって作品を選んでいる手前、あすかは「まあね」とお茶を濁す。そんなやり取りを何度か繰り返したある日、一輝は私の社会性を守ってくれているのかもしれないと、あすかは打ち明けたことがある。一輝は少し考え込んだ後、「やっぱり分からない」とだけ言った。

 

 花粉症と新年度の忙しさに悩まされ、続けていたアクセスチェックをしなくなった頃だった。久しぶりに舞台を観に行くために、昔取得したチケットサイトのIDを確認しようと、しばらく使っていない無料のメーラーを開いたあすかは、迷惑メールの中に個人用と思しきアドレスから届いたものが一通混ざっているのに、すぐさま気が付いた。「小説、拝読しました」という衝撃的なタイトルが付いていたせいだ。仕事から帰る電車の中、携帯からメールを見たあすかの心臓は跳び上がった。あすかは携帯をカバンに放り込んで平静を取り戻そうとしたが、そのメールが作品を称賛するものか貶すものかという考えが頭を巡り、とてもまともではいられなかった。

 しかし結局、あすかは家に帰るまで、メールを開かなかった。どんな内容であるにせよ、道すがら携帯で読みたくなかったのだ。パソコンを立ち上げ、ゆっくりと息を整えてから、やっとメールを開いた。

 それは完成した小説をアップしてから一か月が経つころ送られたメールで、作品を貶すものではなかった。耳に響くほどに鼓動を激しくしながら、あすかはそのメールを一字ずつ読んだ。メールの主は、かつてあすかのサイトと相互リンクしていたサイトの管理人だった。簡単なあいさつの後に、放置されるようになっても折に触れて再読のためにサイトを覗いていたこと、そして商業誌でボーイズラブを描いている漫画家となったことが綴られており、漫画家としてのペンネームまで記されていた。「イツキユウコ」というあすかにも見覚えのあるペンネームは、未完になると思って樹と優斗から貰い受けたものだと言い、勝手な流用を詫びていた(あすかにとってはむしろ光栄だった)。その作家の単行本の表紙を、あすかはすぐに思い出すことができた。記憶にあるその人の絵柄とは、だいぶ異なっている。しかしデジタル作画を導入した今の絵柄をつぶさに見てみれば、確かに当時の個性も見て取れるし、サイトに上がっていた絵はラフな仕上がりのものばかりだった。印象が違うのは無理からぬことだった。

 連絡を取り合っていた頃、あすかはまだ高校生だった。相手の歳は定かでなかったが、年上であることは分かっていた。あすかはその人がサイトで公開していた漫画や小説が大好きで、同じジャンルの作品を書く者として、その人を尊敬していた。久しぶりに貰ったメールの固い調子の中に、姉が妹を可愛がるような口調が残っていて、あすかの胸を甘くさせた。あすかはメールを何度も繰り返し読み、ついに指で文字をなぞり始めた。

 

 

あの小説が完結したこと、とても嬉しい。マンガのお仕事をいただくようになってから、サイトをやっていた頃の自分ってすごかったんだな、と思うようになりました。アクセスカウンターが動くのは嬉しかったし、熱くて長い感想をもらうと本当に幸せでした(これは今でもそうですが)。だけど、人に楽しんでもらえるように作ることと、自分のために作ることって、同じだったり違ったりする微妙なものだから。例えばお金のためって割り切れる道がないのに、話を作ってそれを仕上げて……って、とんでもないことしてたなって思います。

個人制作の長大な作品を完結させるには、いくつかの要素が必要です。目的意識、責任感、衝動とか愛。そのどれもを結局自分で保ち続けなきゃいけないのが、一番難しいところです。どれがあの作品を完結させてくれたのか、私には本当のところは分かりません。だけど私はタッちゃんと優斗くんの物語を読み終えて、愛としか呼べないものを感じました。思い出補正が入ってしまうけど、更新してた当時と変わらないような、あなたの愛を。

趣味を仕事にしてしまって、良いことも悪いこともありました。でも、そういうことで言えば、あなたに久しぶりに感謝のメールができることは、中でも一番良かったことだと言えます。だってこんなに人生を趣味に費やしていなかったら、完結したあなたの小説を読んで、こんなにも感動できていなかったかもしれないから……。

あなたが素敵な大人になったのが分かったのも、うれしかったことの一つです。昔メールとか掲示板でよく話したから、本当によく分かるよ。人は自分の萌えだけなら簡単に愛せるけど、人格まで愛せる人はそれより少なくて、私もちゃんと人を愛せてるか自信がないです。でもきっと、あなたは周りに愛せる人がいるんだろうなと思います。そういう人って、私から見てとても素敵です。

こんなにメールに「愛」って書いたのは久しぶりです、昔してたみたいなメールだね(笑)

でも、本当に読めて良かった。もしかしたらこれまでもそうだったかもしれないけれど、私が次に描く攻にはタッちゃんが混ざっていて、受には優斗くんが混ざっていると思います。

完結おめでとう、お疲れさま、本当にありがとう。 

最後に。どうしても描きたくなって描いてしまいました。どう思われるか分からないけれど、少しでも喜んでもらえたなら嬉しいです。

 

 

 最後の言葉に従って、あすかは添付されているファイルを開いた。それはメールの主が描いた、樹と優斗のイラストだった。あすかは頭の中で描き続けていた二人を、初めてその眼に捉えた。

 

《了》

 

以上の散文を、(インターネットを介するか否かを問わず)これまでぼくと接してくれた全ての愛すべき中毒患者たちに捧げます。