キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

映画と夢

 最近、映画をよく観ている。

 遠回りにはなるが通勤経路にあたる位置に、レンタルショップがある。家電量販店と同じ建物にあるロードサイド店舗だけあって店の面積がまあまあ広く、おっ、こんな作品も、と目を引かれるものが多く見つかる。大学時代、映画論の授業を参考にして熱心に映画を観始め、ミニシアターに通うようになった反面、話題作・大作映画は避けがちになった。そんなこんなで十年以上過ごしてきたので、今更になって、かつてのトレンド作品を借りて観たりしてきた。『バーナード嬢曰く。』に出てくる、ひと昔前のベストセラー本を読むのが趣味という遠藤みたいなノリだ。

 コロナ禍で、家にいる時間を増やすにあたって何をするかとなった時に、本を読むとかゲームをするとかではなく、なぜ映画だったのだろうと考えてみた(読書やゲームの時間も増えてはいるが)。好んで訪れていた劇場へ気軽に足を運べなくなったこととか、去年自宅から離れている期間が長く、慣れ切った空間の感覚のなかでダラダラ画面を眺められるのが心地よい、といった影響は実際大きい。

 「その作品が好き」という実感とは別に、「その作品を観ている時の、自分の状態が好き」という実感がある。何度も同じ本を読み、何度も同じゲームを遊ぶ理由の一つだが、映画はそういう側面が他と較べて強い。視覚と聴覚が刺激されることと、ひとつひとつのショットは自分の視線を批評するという意識とが、混ざり合ったがための反応なのだろうか。劇場で観る映画は特にそうだ。私的ではない空間で鑑賞する、携帯電話の電源を切って連絡を遮断する、そのために移動の時間を費やしたので元を取りたい。いろいろな要因が、非常の集中を促す。集中している時というのは、生きていて一番気持ち良い時間だ。

 

 名前を知っていただけ、前評判やトレイラーの印象しか知らなかった、という有名作品を観続けて、そのタームが終わりかけてきたために、いい加減サブスクリプション・サービスを利用しようかと思っている。有名作品のディスクケースに指が伸びるようになったのは、「探せば見つかるから」という理由も多分にあった。観てみたくなった時に観られるという環境は、レンタルショップに並ばないニッチな作品を好む身としては、とてもありがたい。

 利用し始めると時間が過剰に束縛されるような惧れから、動画配信にしても音楽配信にしても、サブスクを使わずに来た。趣味が偏向的なのだから、サブスクで網羅的な鑑賞をすると収穫が多かろうという思いは、前からあった。そこに映画をたくさん観ようという新しい波が来て、自分に適したサービスを探しているところに、U-NEXTのCMが出色だ、メイキングの記事もとても良い、というツイートを目にした。

 

 

 

 U-NEXTの目指すところはレンタルショップの最終進化形、という言葉が琴線に触れた。ちょうど「旧作観るなら、配信作品の数からしてU-NEXTか」という結論が出かかってもいた。そう遠くないうちに、とりあえず無料トライアルを利用してみることになるだろう。

  

 確実に借りられる見込みがある有名作品の次に観たくなったのはどんな位置づけの作品かというと、「昔一度だけ観て、また観たいけど、ソフトを買わないともうなかなか観られない作品」だ。シネフィルでも金持ちでもないので、そうした作品を全部買う気は起きない。プレミア価格が付いていることも多い。国内上映権が終了してしまったジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』を是が非でももう一度観たいのだが、今Amazonを観てみたら、ソフトの中古価格は7,000円からだった。

 そもそもU-NEXTに登録する気が起きたのは、そういう作品が多くラインナップに入っていたから、というのも大きい。具体的に言うと、成瀬巳喜男『めし』レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』とか(他のサービスでも視聴可能なものもあるが)。最初に探したのはミシェル・ゴンドリーの『ウィ・アンド・アイ』だったが、U-NEXTでは配信期間を既に終えており、Amazon Primeでは地域制限の関係で視聴できなかった。モンテ・ヘルマンの『果てなき路』もそうだった。

 『果てなき路』の劇中には、主人公がイングマール・ベルイマンの『第七の封印』を観るシーンがある。初見の時には観ていなかった『第七の封印』を観た今、もう一度観たい。ラストシーンで目をみはるほど戦慄したことは間違いないのに、全然内容を説明できないほど記憶が風化しているのも情けないし、トム・ラッセルが歌うオープニングテーマを日本語字幕付きでもう一回聴きたい。昔調べたところによると、トム・ラッセル自身の音源に収録されているその曲はボーナストラック扱いで、歌詞が掲載されていないという。それではヒアリングが出来ない自分には訳せない。

 

 夢と記憶の間には、人智の及ばぬ不思議な繋がりがある。

 昔観た映画の印象から抜け落ちてしまったピースをもう一度はめたいという願いは、記憶を補いたいという願いよりも、あの夢をもう一度見てみたいという願いに近いと思う。

 あのマンガのあのコマをもう一度見たい、あの本のあのくだりを読みたいと思って本棚に手を伸ばすことがよくあるのだが、本当はそれらも、記憶の補完ではなく夢の再体験を望んでの行為なのかもしれない。ただこうした場合、表徴としてそれ自体がすぐに目の前に示されるから、「これが見たかった」という満足の方があざやかに残ってしまう。「確かめたかったことが確かめられた」という安心で、多くの片が付いてしまう。なかなか観られない映画はそうもいかないし、劇場で観た素晴らしい映画の記憶はフェティッシュであり続ける。それはいつか夢と同質になる。映画が夢なら、いま引きこもろうとする自分は、夢を見たがっていることになる。そう的外れでもない。そこに現実から目を逸らす背徳があるから、今、飽きもせず映画を観ているのだろうか? 断定的に「観るのだ」と書くと、そういう暗示に陥りそうなのでやめておく。

 以前、『The Monthly Delights-2』のライナーノーツの中で、映画館は深海を想わせる、というようなことを書いた。暗い中に射込まれた光が、美しいもの、グロテスクなもの、不思議な現象、殺生などを照らし出すという点において、劇場で観る映画と深海の記録映像は通じている。

 上映前の照明の消え方が一番好きな劇場はシネマヴェーラだ。徐々にゲインが弱まっていき、最後にフッと真っ暗になる。映画が始まると、海に深く潜ってから目を開けたような気分になる。ヴェーラに行きたい。先月かかっていたエルンスト・ルビッチの『天国は待ってくれる』は、以前ヴェーラでかかった時、字幕付けのために少額ながら寄付をした映画だった。観に行きたかった。