キャベツは至る所に

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 「最近死ぬことばかり考えてる」とは、冨樫義博のマンガ『レベルE』の作中に出てくるダイアローグの一部だが、ぼくも最近死ぬことばかり考えている。十代の中頃までに、身近な人物が自死することが二度あった。今でも誰かと親密になると、必ずその人の生き死にのことを考える。それが何かの拍子に露呈すると、よく相手から「重たい」と言われる。申し訳ない。

 去年の夏ごろ、ずっと交流のあった人が、自死遺族であったことを知った。酒の席で、その人からするりと打ち明けられた。そのとき自分の口からも、「誰かをそうやって喪うと、自分の選択肢にも死ぬことが入りますよね」という言葉が滑り出た。言ってから、ああ、まだこんなに死にたいのだな、と思った。

 創作するものは、なるべく陽的なものになるよう心掛けている。例えば物語創作において、作品がポジティブなものになるかネガティブなものになるか、「割合」は大して重要ではない。話の九割九分が辛い場面で構成されていても、たった一分に差した光明で、それが希望の物語だと感じてもらうことは出来る。そうして誰かに、生の世界に居つづけるためのエネルギーを長くもたせてもらえればいい。そう思って物語を書こうとしてきた。

 ここ五年ぐらいは、人との交わりの中で味わうよろこびが大きかった時期だったせいもある。誰かと話すことのよろこびが、今までの人生の中で一番具体的だった時期だった。よすがに対して肯定的であれば、日々安寧でいることも出来る。しかし、そうした熱の届かない所があることが分かったし、たぶん自分の小説はそこから出発している。あんなによろこばしいものが、自分の成したいことと、決定的なかかわりを持たない。この心細さ。そして相手を伴う問題でありながら同時にそれを解放的だとも感じている、この勝手さ。

 そもそも、ずっと死にたさを抱えている人間に、生という時間を寿ぐ物語が本当に書けるだろうか? その場から離れたがっている者が、あなたにはこの場にいてほしいと願うことは、単なる身勝手ではないのか。

 

 健康上の理由から最近酒を抜いているので、こういうことをずっとしらふで考えている。しらふだと、合わせようと思ったものにピントが合う。今持っている自問を続けるのは辛い。ただ、自死を止められなかったと、自分は人の死を防ぎ損ねたと思っている(傲慢だと思いながら)。それなら日々が辛くて当たり前だとも思っている。そういう考えで心を落ち着かせたいなら、眼を抉るようなものも進んで見つめるべきだ。罰は罪の報いであり、許しのために受けるものではない。針を刺されることではなく、罪を図柄とする刺青が罰だ。